誰かの話を聞くときには。

2015年1月17日

私は、とりあえず、人が伝えてくれた話には、

 

「そうなんだ」

 

と、一度うなずくようにしています。

 

そして、できるだけそのままの形で受けいれるようにしています。

 

どんなに信じられないことや、

 

「ええ? そうかなあ?」と思うようなことでも、

 

「そういうこともあるのかもね」

 

と、まずは一回のみ込んでみる。

 

そういう風に心掛けているのです。

 

 

 

その話の内容の真偽を即座に判断できるほど回転の早い脳みそを持っているわけでもないし、

 

そもそも「ホント」も「ウソ」ももしかしたらこの世には存在しないのかもしれないし(!)

 

それに、私だったら、目の前の相手には自分の話したことを頭から否定されたくない。

 

だから、一度は深くうなずきます。

 

こころになにかひっかかるものがあっても、しばらくは様子を見ます。

 

そのうずきが大きくなって、おのずと言葉の形をとってきたら、その時点で、相手に伝えるべき内容かどうか吟味します。

 

固まり切っていないうずきを無理やりに言葉にして、相手に乱暴に投げつけるようなことは、ほとんどしなくなりました。

 

 

 

私がこういう風な行動を心掛けるような自分になったのには、ひとつ、大きなきっかけがあって。

 

大学一年生のあるとき、友人が、私にとってはまったく未知な考えを口に出したんです。

 

どんな話だったのかはほとんど忘れてしまったけれど、でも、とにかく、彼女が口に出したのは、それまでの私の人生には一ミリも登場してこなかったような、あまりにもあたらしい考え方だった。

 

それで、私、びっくりしてしまったんですね。

 

未知なものに会うと、人間は緊張します。

 

その緊張を怒りに変換して、私は彼女を糾弾したんです。

 

「そんなことを言うなんて非常識だよ!」

 

とかなんとか。

 

結構な大声で罵りました。

 

彼女は突然の私の怒りに、悲しそうにうつむいて、「ごめんね」とつぶやきました。

 

私は、

 

「別に謝って欲しいわけじゃなくてさ……でも、やっぱり非常識だと思う……」

 

とかなんとかごにょごにょと言いました。

 

そのうちに、私は、あまりにも理不尽な怒りを彼女にぶつけてしまった自分が、なんだかとても恥ずかしくなりました。

 

でも、意地っ張りな私は、決して彼女に謝ることはできなかった。

 

 

 

彼女が言った「非常識」な考えは、ずっとずっと、私のこころの中に残っていました。

 

 

 

そうして、何事もなかったかのように日々は過ぎ、半年後のある日、私は、また別の友人と話をしていました。

 

そのとき、たぶん似たようなテーマが出たのでしょう。

 

「私はそれについてはこう思うんだよね~」

 

そう言って私が得意気に語り始めたのは、なんと、半年前、自分が同じ口で「非常識だ!」と糾弾した、その彼女の考えと、まったく同一のものだったのです……!!!

 

語り始めて10秒で気づきました……。

 

驚愕しました。

 

自分が信じられなかった。

 

「なに言ってるんだ、自分!?」

 

と本気で心配になりました。

 

そして、本気で、自分という人間が恥ずかしくなったんです。

 

私はその場であのとき怒鳴ってしまった彼女に電話をかけ、半年前の非礼を詫びました。

 

彼女は「そんなことあったっけ?」と、笑ってゆるしてくれました。

 

 

 

この事件で、私は、人の考えなんて決して固定されていない、刻一刻と変わっていくものだ、ということを身にしみて理解したのです。

 

「これが私の考えです!」

 

なんてことは決して言えなくて。

 

人間に言えるのは、

 

「これが、現時点での、私の考えです」

 

ということだけ。

 

それだって、言葉にしてかたちになった時点で、すでに過去のものになっているのです。

 

なんかね、そんなものに固執してしまうのは、もったいないなあ、と。

 

 

 

それに、自分が反発を覚えるなにかっていうのは、つまり、自分の中に、それに対して、ものすごく「惹かれる」部分がある、ということもできて。

 

「反応している」=「関心がある」ということですから。

 

もう、それを素直に認めてしまった方がいいんじゃないかと思ったんです。

 

 

 

自分の考えなんかぜんぜん信用できない。

 

そんなもの、風が吹けばすぐにかたちを変えてしまう。

 

いろ~んなものの影響を受けて、刻一刻と変化を遂げていくものです。

 

ときには、「ぜったいにありえない!」と思っていたような考えを、その直後に、自分自身のこころからの思いとして、朗々と述べてしまうようなことだってある。

 

そういうものなんだと思います。

 

一貫性がないのが、人間の本質。

 

もう、それでいいじゃないか、と。

 

実体のない「自分」、そんなものが考えたことなんて、もっと実体がないものです。

 

そんなものにこだわっていても、苦しくなるばかりだよ、と。

 

 

 

だから、私は、目の前の相手の話には、とりあえず一度大きくうなずいてみることにしているんです。

 

いつか自分が、その相手に教えてもらった考えを、誰かに向かって朗々と語っている姿を思い描きながら。

 

 

 

でも、どうしても相手の話をそのままのみこむことができないようなときは、

 

「ごめん。ちょっと、いまの私にはよく理解できない。」

 

ということを素直に伝えます。

 

そのときの主語は、あくまで、「私」です。

 

そして、「いまはよく理解できないけれど、ちょっと考えてみるね」と伝えるようにしています。

 

「そんな話、信じられない!」

 

という風に、相手を一方的に否定するようなことは、できるだけ言わないようにしている。

 

主語は、「私」。

 

でも、その「私」だって、刻一刻と変化しているのだから、いつかは相手の言っていることも理解できるようになるかもしれない。

 

その余地を、いつだって残しておきたいな、と思うのです。

 

 

 

大学一年生のときのあのエピソードは、その後の私の人生を大きく変えたと思います。

 

そのときは、もう、恥ずかしくて恥ずかしくて打ちのめされるような気分だったけれど、でも、あれがなかったら、私、いまだに「自分の考え」や「自分の言葉」に固執して、目の前の相手のお話に、真剣に耳を傾けるようなことはできていなかったと思うのです。

 

人間の本質に思いをいたすことなど一度もないままに、ぼんやりと生きて、ぼんやりと死んでいった可能性だってある。

 

だから、よかったです。

 

あのとき、少しでも謙虚になれて、よかったです。

 

 

 

 

 

ふいに、そんなことを思いました。