エネルギーをいただく、ということ。

2015年1月24日

私は基本的にはカフェインを受け付けない体質なので、コーヒーという飲みものを、できるだけ避けて生きてきました。

 

でも、最近、「このコーヒーなら、もしかしたら、大丈夫かも……?」というのがなんとなくわかるようになってきて、機会に恵まれれば、挑戦してみるようにしています。私、体質的にダメなだけで、コーヒーの香りも味もほんとうは大好きなので。(それでも1~2カ月に一度、あるかないかぐらいですけれど。)

 

昨日も、そのチャレンジに成功しました。

 

コーヒーをカップに一杯と、おかわりでその半分ほどいただいたのですが、普段カフェインをからだに入れたときのような変な焦燥感や激しい動悸、視野狭窄などの不快な症状の数々に見舞われることはなかった。

 

恋をしたときのように、胸がほんの少し切なくて痛苦しいような感じになったけれど、それはどちらかと言えば歓迎されるべきもので(だって恋って楽しいじゃないですか!笑)、しかもそれも一瞬で通り過ぎていき、あとにはなんだか爽やかな気分だけが残っていたのでした。

 

 

 

「いけるかも?」の判断基準は、そのコーヒーをいれてくれる人が醸し出す雰囲気による部分が大きいです。

 

笑顔だとか厳しい顔をしているとか、そういう表面的なものじゃなくて、なんだろな、その人自身の一杯のコーヒーに向き合う姿勢みたいなもの???

 

それが、真摯か、なおざりか。

 

こういうのって、気を付けて見てみれば、結構わかるもので。それに従ってみれば、かなりの確率で、大丈夫です。

 

いや、これ、別に私に特殊な能力が備わっているとかじゃなくて、自分に素直になってみれば、たぶん誰だって簡単に判断できると思うのです。

 

もちろん、こちら側の体調による部分も大きいのですが、でも、なんだろな、それをベースにしたところからじっと相手を見て、その上で、

 

「この人のいれるコーヒー、飲みたい? 飲みたくない?」

 

と、自分自身に問いかけてみて(女性だったら子宮のあたりに訊ねるイメージ。男性は……ごめんなさい、わからないや。笑)、OKだったらいただく、NGだったら見送る……という風にすれば、あんまりハズすことはない。もちろん、たまにばっちりハズして痛い思いをするのですが。

 

 

 

昨日、ご縁があって、あるとてもおもしろい講演会にお邪魔したのですが(近々記事にします)、そこで、

 

「私たちは、物質そのものというより、そこにのっているエネルギーのようなものをいただいて生きている」

 

といったお話が出まして。

 

物質そのものは、実はお皿のようなものなのだ、と。

 

そして、そのエネルギーというのは、じつは空気中に遍在しているものなのだ、と。

 

私たちは、知らず知らずのうちに、その目に見えないエネルギーをも摂りいれて生きているのだ、と。

 

うわあ、そうかも……! と強くうなずいてしまいました。

 

 

 

というのも、私、つい先日まで72時間の断食を行っていたのですが、意識をどこに向けるかによってで、ぜんぜんからだの楽さが違っていたのですよね。

 

「食べられない私」に意識を向けるとしんどくなる一方……。

 

でも、「食べていないのに生きていられる。じゃあ、なにが私を生かしてくれているのか?」という部分に意識を向けると、自分の周りにありあまるほどにある“エネルギー”的なもの存在に一気に目が見開かされる。

 

物質を口から摂りいれることをしていなくても、空気中に偏在するなにかキラキラしたようなものを、私はすでに、存分にいただいているのだ、という部分に意識が向くと、からだは途端に「しゃきん!」となるのですよ。

 

それで、おなかの底から「よろこび」としか言いようのないものがひたひたと満ちていくのがわかるのですよね。

 

なんともおもしろい体験でした。

 

 

 

昨日は帰宅が少し遅くなったのですが、玄関を開けたらカレーのにおいが私を迎えてくれました。母が田舎から遊びにきているのです。

 

母はすでに寝ていましたが、私がいつでも食べられるように、カレーもご飯もきちんとセットしてありました。

 

おなかは空いていたけれど、夜も遅かったし、断食明けて間もないところにスパイシーなものは危険だし、添加物バンバンの市販のカレールウを使っているだろうし、お肉もゴロゴロ入っているし、どうしようかな……と一瞬思案しましたが、

 

「物質そのものはお皿のようなもの。母の愛というエネルギーを食べよう!」

 

と思って、両手を合わせていただくことにしました。

 

母はあまり料理が得意でなく、しかもズボラで適当なので、カレールウが溶けきらずに塊になって残っていることが多々あり、昨日のカレーもまあそんな感じでした。

 

でもね、そのカレーはキラキラしていたんです。

 

形の揃わない野菜、大きすぎるお肉、そして溶けきらないカレールウ(笑)

 

どれをとっても、「母」でした。

 

どれをとっても、私を元気にするエネルギーに満ち満ちていました。

 

食べたはじから、カレーが「光」になって、私のこころとからだをめぐっていくのがわかりました。

 

ありがたいな、と思いました。

 

ありがたくって、ちょっとだけ涙が出ました。

 

 

 

 

 

 

 

「食べる」という行為って、決して一面的なものではないのですね。

 

昨日も、「見出す」ことによって「引き出される」ものがある、といったようなお話をお聞きしましたが、「食べる」側の私たちが、そこになにを見るかによって、体験はまったく違ったものになっていくのでしょう。

 

 

 

ああ、まったく、生きていくって、ほんとうにおもしろいことだなあ!

 

 

 

 

 

 

 

今日も、食べたり、食べなかったり、飲んだり、飲まなかったりして、おもしろおかしく生きていきましょう。