死こそ常態 生はいとしき蜃気楼

2015年1月25日

さくら

 

ことしも生きて

さくらを見ています

ひとは生涯に

何回ぐらいさくらを見るのかしら

ものごころつくのが十歳ぐらいなら

どんなに多くても七十回ぐらい

三十回 四十回のひともざら

なんという少なさだろう

もっともっと多く見るような気がするのは

祖先の視覚も

まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう

あでやかとも妖しとも不気味とも

捉えかねる花のいろ

さくらふぶきの下を ふららと歩けば

一瞬

名僧のごとくにわかるのです

死こそ常態

生はいとしき蜃気楼と

 

 

(『谷川俊太郎選 茨木のり子詩集』岩波文庫 より)

 

 

 

 

 

毎日通る場所に、有名な桜並木があります。

 

いまは冬。木々はすべての葉を落とし、色彩という色彩を失ってしまったかのようです。

 

でも、その並木道全体を遠くの方から眺めてみると、不思議なことに、白ともピンクともつかない、なにかぼやぼやとした霞のようなものが、木々の枝先のそこかしこを覆っているのがわかるのです。

 

花の気配は、いつだってそこにある。

 

人に気づかれようが気づかれまいが、いつだって。

 

 

 

 

 

「生」と「死」は独立してあるのではなく、

 

また、

 

一本の線上に並んであるものでもありません。

 

「生」は、「死」の中にある。

 

「死」の中にこそ、「生」はある。

 

「生」は「死」に含め抱かれ、はかなくもそこに立つ、「いとしき蜃気楼」そのものです。

 

 

 

 

 

蜃気楼として生きて、今日で31年を数えました。

 

 

 

蜃気楼だとしても、

 

蜃気楼に過ぎないとしても、

 

蜃気楼に過ぎないからこそ、

 

私は、

 

この「生」が、

 

いとおしくてたまらない。

 

 

 

 

 

 

 

ただただ、

 

ありがとう。

 

 

 

ありがとう、しか出てこない。

 

 

 

ありがとう。

 

 

 

すべてに。

 

あなたに。