仏 : 私 = iTunes : iPod

2015年1月28日

以前、私は随分と熱心に「仏」を拝んでいました。

 

お寺の門をくぐると、境内のほかのものには一切目もくれず、真っ先に像として彫り出された「仏」の前に行き、ひたすらに手を合わせていました。

 

「私、どうしたらいいですか?」

「教えてください」

「助けてください」

 

そんな言葉が口をついて出てくることもありました。

 

目の前に「いる」、なにか自分を超えた圧倒的な存在の前にひれ伏し、一心不乱に「教え」と「救い」とを請うていました。

 

それ以外に、「仏」と向き合う術を知りませんでした。

 

 

 

時は経ち、いまの私は、相変わらず「仏」とその教えに惹かれはするけれど、上に書いたような向き合い方はしなくなりました。

 

「仏」という存在は、究極的には「私自身」に他ならないのだ、ということを知ってしまったからです。

 

 

 

以前の私は、「仏」と「私」とを、完全なる別物として考えていました。

 

「仏」は、「私」の外側にいて、困ったときや苦しいときに、なにか不思議な力を使って助けてくれる存在なのだ、と。

 

でも、それは間違いでした。

 

「仏」は「私」の内側にいました。

 

いや、その言い方すら正確ではありません。

 

ほんとうは「内側」も「外側」もなく、

 

ただ、ひたすらに、

 

「仏」は、「私」なのでした。

 

「私」こそが、「仏」だったのです。

 

それがほんとうのところでした。

 

 

 

とは言え、その場合の「私」っていうのは、個別の意識を持った私、たとえば「小出遥子」と呼ばれる存在のことではなく、

 

「小出遥子」が消えたところに立ちあらわれてくる、果てしなく大きな「本来の私」こそを、「仏」と呼ぶのです。

 

 

 

「仏像」っていうのは、「仏」そのものじゃなくて、「仏」というイメージを「形」として彫り出した「像」にすぎません。

 

「仏」は、本来、形のないものです。

 

だけど、「仏像」は、「本来の私」「形を持たない私」「大いなる私」を「個別の意識を持った私」に思い出させてくれるツールとして、ものすごく有効なものではあります。

 

 

 

私は、お寺という空間で仏像の前にじっと座っていると、徐々に徐々に「本来の私」を思い出して、こころが安らいでいくのを感じます。

 

たとえるなら……そう、iTunesにiPodをつなぐ、あの感じ。

 

「仏」という本体に、「私」をつないで同期する、というイメージ。

 

まあ、実際にはiPodの同期みたいに、仏像と向き合うだけで、完全に「仏」=「本来の私」になれる……というか「戻れる」わけではないのですが(それができたら苦労はしないよ~!)

 

でも、確かに、なにか大切なものが、内側からじわじわと湧き上がって、自分自身を少しずつ少しずつ覆っていくのを感じるのです。

 

 

 

以前ほど熱心に仏像を拝むようなことはなくなったけれど、それでも私は仏像が好きです。

 

古かろうが新しかろうが、形として美しかろうがそうでなかろうが、有名な仏師の手によるものであろうがそうでなかろうが、文化財指定を受けていようがそうでなかろうが、

 

ただ、それがお寺という場所にまつられて、少なからぬ人々の思いを一身に受け止め続けてきた、もうそれだけで、「本来の自分」を思い出させてくれる存在となってくれているのです。

 

もう、それだけで、ありがたい存在です。

 

 

 

「仏」は「私」で、「私」は「仏」。

 

ほんとうのところはそうだけれど、個別の意識を持って日々を生きていると、そのことをすっかり忘れてしまいます。

 

だからこそ、お寺やお経や仏像があるのでしょう。

 

 

 

みんながほんとうのところを思い出して、力強く生きていくことができたらいいな。

 

そんなことを思います。