視えない、聴こえない、そんな場所にある「うつくしさ」について。

2015年1月31日

私たちは、視えないものも「みて」いるし、聴こえないものも「きいて」いるのだと思います。

 

 

 

この間のTempleでは、お経(リフレクション2)の時間以外、全編、小さく音楽をかけていました。

 

私の友人の、とても才能のある女の子に、選曲と編集をお願いし、お寺の音響設備(ものすごく立派なものでした……)をお借りして、流してもらっていたのです。

 

彼女は、私がとくにお願いしたわけでもないのに、Templeの各プログラムの趣旨をしっかりと理解して、それに合うような音楽を選び、時間も考えて、緻密に編集してきてくれました。

 

音量も、直前まで、一番その場の雰囲気にしっくりくるポイントを探ってくれていました。

 

 

 

彼女が選んだ音楽は、ひとのこころに、ひとひらの雪のような白くて純粋でうつくしい明かりを、静かに、そうっと、やさしくともしてくれるものばかりでした。

 

あの音楽なくしては、あの空間は、決して成り立ちませんでした。

 

 

 

会が盛り上がっていくにつれて、音楽はあまりにも空間の中に自然に溶け込んでいき、最後の「ダイアローグ」というプログラムの中では、もう、ほとんどメロディとして音が聴こえてくることはなくなっていました。

 

それでも、彼女の音楽はずっとそこにあって、その場にいらっしゃった方々のこころに寄り添ってくれていました。

 

 

 

聴こえなくても、「きこえて」いたし、「きいて」いた。

 

音楽は、確実に、「とどいて」いました。

 

だからこそ、参加された方々は、安心して、自分のこころの中にあるものと向き合うことができたのではないかな、なんていう風に感じるのです。

 

 

 

 

 

視たり聴いたりできる領域を遥かに超えたところにあるものをも、私たちが「感じて」いるのだとすれば、ふだんから、できるだけうつくしいものに触れていることが必要なのではないかな。

 

「うつくしいもの」とは、自分のこころが自然に寄っていくもののことです。

 

世間的な基準など一切関係なく、ただただ自分のこころが素直に指し示す方向に、触れるべきうつくしさはあるのだと思う。

 

そこにこそ、私たちをほんとうの意味で「生かす」なにかがあるのだと思う。

 

 

 

 

 

今日も自分のこころの求めるうつくしさに生かしてもらおう。

 

善き日を。