「わくわく感」から行動する

2015年2月1日

この世に存在する人は、どんな人でも、なにかしらの「役割」を持っているのだと思います。

 

そして、その「役割」は、各自の「得意なこと」にヒントがあるのだと思う。

 

 

 

ほんとうに得意なことをやっているとき、つまり、「役割」を果たしているとき、人は気配が静かになります。

 

変な「我」がだだもれしていない、というか。

 

ほかの何者にもなろうとせず、ただただその人として存在するようになる。

 

そこに一切の無理が生じなくなるのですね。

 

 

 

「無理」というのは、「理(ことわり)」が「無い」と書く。「理」とは自然の道理のこと。

 

そんな話を、最近、あるところでお聞きしました。

 

つまり、無理が生じていないっていうのは、自然の道理のど真ん中を生きている、ということ、なんですね。

 

「あるべき姿」と「実際の姿」にギャップがない。

 

だから、そういう人は、ひたすらに、「静か」なのでしょう。

 

 

 

常になんだかたのしそう、だけどどっしりと落ち着いていて、どこか淡々としていて、静か。

 

そういう人っていませんか?

 

そういう人って、ぱっと見ただけで、その人自身の「役割」を果たしているってことがわかったりしませんか?

 

 

 

「得意なこと」をしているとき、人は、そのベースに、「わくわく感」をたたえています。

 

「わくわく感」がおなかの底にどっしりと存在していて、そこから行動ができる。

 

逆に言えば、「わくわく感」は「動機」であって、決して「目的」、「ゴール」ではないということですね。

 

 

 

でも、私も含めて、たくさんの人は、どうしてもそこを間違えてしまいがちなんですよね。

 

みんな、「わくわくするために」なにかをしてしまう。

 

「わくわくするために」山に登ったり、海に潜ったり、お菓子を作ったり、バンド活動にいそしんだり……してしまう。

 

逆なんですよね。

 

「わくわくするために」なにかをするんじゃなくて、

 

「わくわくしているから」なにかをするんです。

 

 

 

「わくわく感」は自分の内側にそもそもあるもの。

 

そこを無視して、外側にそれを求めるから、「無理」が生じて、疲れてしまう。

 

そして気配をがちゃがちゃさせてしまう。

 

 

 

いや、「わくわくするために」なにかをしたってぜんぜんいいんです。

 

そういうのが面白く感じられるようなときだってあります。

 

でも、はっきり言って、そこに自分の「役割」はないのだと思う。

 

最初から「わくわく感」を覚えられないようなものを「役割」にしようとして頑張っても、仕方がないのだと思う。

 

厳しい?

 

でも、ほんとうのことだと思います。

 

 

 

外側に「わくわく感」を探し求めるより、自分の内側にそもそもある「わくわく感」を大事にして、そこから行動してしまった方が、「運ばれていく」感じになるんじゃないかな。

 

どこへ? 想像もつかないほど、「たのしい」場所へ、です。

 

 

 

やっぱり誰でも、「得意なこと」をするのが良いのだと思います。

 

ありきたりすぎる結論だけど、ほんとうにそう思います。

 

だってそっちの方が、ほんとうの意味でたのしい人生を送れるはずだから。

 

 

 

なんとなく、そんなことを思いました。