生きていることに意味はあるのか

2017年5月25日

おはようございます。小出遥子です。

なんか最近いよいよファンブログみたいになっていますが(笑)
今日も大好きな吉本ばななさんの小説の引用からスタートです。

 仮住まいの夜、質素な食卓におやじの味。私の将来にはなにひとつ前向きなものはなく、ただ今現在があるのみだった。私は父がここにいる理由が、家族に愛されているのになぜか家に帰らずにここにいる理由が少しわかった。前向きで正しくて納得のいくことというのがひとつもないからだった。

 久しぶりに食べたオムレツは死ぬほど懐かしい味がして、私は、久しぶりに、生きていることに意味があるような気がして、ビールを飲みすぎてしまった。だからドラマでも見て寝よう、と思った。生きていることには本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もうおぼえきれないほどの美しいシーンが私の魂を埋めつくしているのだが、生きていることに意味をもたせようとするなんて、そんな貧しくてみにくいことは、もう一生よそう、と思った。

(『体は全部知っている』吉本ばなな=著/新潮文庫収録「おやじの味」より)

「生きていることに意味はあるのか?」というのは、
人類にとって究極の問いだと思います。

これに関して、最近、私はこう感じているのです。

生きていることは、きっと、それ自体が「意味」であって、
だからほんとうは、意味がない瞬間なんて、一秒だって、ない。

でも、そこに自分の都合、自分の解釈を持ち込むと、
「あの瞬間には意味があったけど、この瞬間にはなかった」
という風に、話がやけにややこしくなってしまう。

「意味のない瞬間」を生きることは耐え難いから、
思考をこねくりまわして、無理やりそこに「意味」を持たせて、
でも、ほんとうには自分をだますことなんかできなくて、
おなかの底で「なにかが違う」と感じ続けて、
満たされない気持ちばかりがたまっていって……。

そうして、知らず知らずのうちに、
自分自身を「貧しさ」と「みにくさ」の檻の中に閉じ込めてしまう……。

そんな生き方、もうやめよう。

「意味を持たせよう」という意志以前、思考以前に、
「意味」は、すべてに、備わっている。

その可能性に目を向けてみたとき、ふっと全身の力がゆるんで、
誰もが、すでに、絶対的な「意味」の中に生かされていたことに
気がつくことができるのかもしれません。

それ以上のしあわせなんか、あるのかな。

東京は雨降り。
よい一日をお過ごしください◎

 

≪今後のTempleのスケジュール≫

【5/28(日)】Temple@瑞因寺
(名古屋でのTemple初開催! ふるってご参加くださいませ!)

【5/30(火)】Temple@神谷町光明寺(ゲスト:プラユキ・ナラテボーさん) ※満員御礼

【6/5(月)】Temple@髙願寺
(ゲスト:小笠原和葉さん)

【7/23(日)】Temple School 特別イベント第2弾(ゲスト:横田南嶺さん、藤田一照さん) ※満員御礼