【釈迦】犀の角のようにただ独り歩め

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

あきらめることさえできるなら、一瞬で楽になれるのにな、とよく思います。

ここでの「あきらめる」には、「明らめる」の漢字があてられます。つまり、「仕方がないと断念したり、悪い状態を受けいれたりする」(広辞苑より)というような解釈ではなく、
すべてのものを「明らかに見る」ということ。自分の勝手な主観を差し挟まず、物事を「ありのままに受けいれる」ということです。

人間が一番「あきらめる」=「明らかに見る」=「ありのままに受けいれる」べき事実は、「結局、自分の人生、自分の足で立ち、自分の足で歩いていくしかないのだ」ということなんじゃないかな、と、私は思っています。

「外側の誰かやなにかに頼りきりで生きるのはもうやめよう。自分の足で立ち、自分の肚に訊き、自分で決断し、そうして力強く歩みを進めていこう」。そう決意して、実際に一歩を踏み出した瞬間にこそ、ほんとうの意味での「生」のはじまりがあるのだと思うのです。

犀の角のようにただ独り歩め

それは決して「孤独」な生き方なんかではないです。「あきらめ」て、おそるおそるでも一歩足を踏み出したその先には、必ず、「仲間」が待っていてくれるからです。というか、一歩踏み出したその瞬間には、すでに「仲間」は、自分の隣を並んで歩んでくれています。「独り歩」みはじめたあかつきには、その心強い事実に気づける自分になるのです。

「仲間」と言っても、互いにもたれ合い、寄りかかり合うような、「僕たち、私たち、ず~っと仲良しだよね! ず~っと一緒に生きていこうね!」みたいな、生ぬるくてくだらない(毒舌でごめんなさい)間柄なんかじゃありません。なぜなら、その「仲間」も、また、自らに光を見出し、そこを拠りどころとして「独り歩」む存在だからです。

ひとりとひとりがそれぞれに、自分の人生を自分の足で歩むようになって、はじめて、人と人とは、ほんとうの「仲間」になれるのだと思います。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年4月26日発行号より転載)