データと宗教

2016年10月4日

おはようございます。小出遥子です。

昨日は、世界経済の第一線でバリバリご活躍されていたある素敵なおじさま
(というか現在もご活躍中。お名前出して良いのかな……?)
と、おいしいランチをご一緒させていただき、
大変示唆にとんだお話をいろいろいろいろお伺いしてきました。

中でも刺激的だったのはこのニュースの話題。

Facebook、Amazon、Google、IBM、MicrosoftがAIで歴史的な提携を発表

9月29日のニュースってことは、5日前か……。
私はなぜ昨日までこのニュースを知らずに生きていたのでしょう……。

詳しくは記事内に書いてありますが、
人工知能開発の領域が飛躍的な発展を見せている昨今、
もはや「貨幣」よりも「データ」が
価値あるものとして取り引きされる時代になった、と。

ふむ……。
これは、正直、いままで考えたこともなかったけれど(お恥ずかしい……)
ちょっと考えれば、まあ、すぐに納得のいく話ですよね。
貨幣は、言ってしまえば単なるモノだけれど、
データは実際にAIを動かしてしまうのだから。

で、そんな流れの中で、
Facebook、Amazon、Google、IBM、Microsoftの5社が提携した、と。

これがどういうことなのかは、経済や社会の流れに疎い私にもわかります。
Facebook、Amazon、Google、IBM、Microsoftの5社ですよ。
私たちの、ネットを介した生活のほとんどすべてのデータが
一点に集積されてしまう、ということです。

その集めたデータを、じゃあ、どう使っていくのか……。

そこから先の具体的な話は書きませんが
(というか書けません、勉強不足で……)
ただひとつ、確実に予測できるのは、
この流れの発展とともに、仏教……というか宗教の本来的な役割に
光が当たる機会は増えていくだろう、ということ。

宗教の本来的な役割というのは、
「なにものでもないもの」としての本来的な自己(=いのち)を思い出し、
その地点から、与えられたいのちをまっとうしていく……
そういう生き方の可能性を提示するというところにあります。
少なくとも、私はそう思っています。

データって、すべて「個人」に属するものですよね。
簡単に言えば「私の物語」、つまりは「フィクション」が
跋扈する世界のもの、ということです。

でも、本来、私たちは、なにも持たずに生まれてきて、
なにも持たずに死んでいく存在です。
禅にも「本来無一物」ということばがありますよね。
それが「ほんとう」なんです。
なんらかの「属性」と分かちがたく結ばれて、
それが「私」を規定してしまうことなんか、
本来、ぜったいにありえないお話なんです。

でも、その「ぜったいにありえないお話」、つまりは「フィクション」が、
あたかも「絶対的な真実」であるかのように扱われているところに、
現代という時代の特徴があって……。

それが良いとか悪いとかいうつもりはありません。
ただ、不自然なんですよ。どうしようもなく不自然。
それが行き過ぎると、疲れてしまいますよね。

本来的なあり方に背く生き方をしていると、
人間、誰だって疲れてしまうんです。
それは当たり前の話です。
だって「いのち」がないがしろにされているのだから。

「私」というフィクションに基づいたデータの価値が
相対的に上がり続けていくこの世の中の流れは、
もはや止めようがないでしょう。

でも、フィクションはフィクションですからね。
この流れが進めば進むほど、かならず、どこかでほころびは出ると思うんです。
というか、それはそもそも「ほころび」でしかなかったことに
多くの人が気づく時代がやってくる。

人間、そんなに馬鹿じゃないので。

そのときに、はじめて、仏教をはじめとする
世界中にあまたある本質的な知恵(智慧)が伝えていることが、
たんなる「おとぎ話」としてでなく、
どうしようもなく必要とされる流れが生まれてくるのではないでしょうか。

というか、「すでに」そうなっているのでしょう。
まったく、うかうかしていられないな、と思います。

私は、私の持ち場でやれることを、誠心誠意やっていこう……。
決意をあらたにする、台風接近前日の朝です。

 

お読みくださってありがとうございます。

よい一日をお過ごしください◎