「信じている」のではなく「疑っていない」

2017年7月22日

おはようございます。小出遥子です。

昨日、ツイッターでこんなことをつぶやいてみました。

「さとり」の世界がどうとか、もういいんです。(って、あんなタイトルの本を出した人が言うことじゃないんですけど!)そんなのは、もう、空気中に酸素があるのと同じぐらい当たり前の話なんです。酸素があるという事実に感謝をしながら、いかにたのしく生きていくのか、そこに尽きる気がしています。

最近、仲の良い友人に会ったのですが、そのとき、

「最近のブログがすごくいい!」

と言ってもらいましてね。

「空(くう)一辺倒じゃなくて、
ちゃんと色(しき)を生きているからこその
リアリティを持った言葉たちにグッとくる!」

と。

うれしかったですねえ。

実際、私の中で、「空」やら、「色」やら、「縁起」やら、
「無常」やら、「無我」やら、「涅槃」やらって、
もはや「探求」の対象ではなくなってしまっているんですね。

それは、それこそ空気中に酸素が溶け込んでいるように、
日常に、あまりにも当たり前のものとして存在している。
(存在、でもないんですけれどね、厳密に言えば……。)

ほんとうにほんとうに当たり前で、
なにひとつ特別なものじゃなくて、
でも、だからこそ、
その中で呼吸をさせてもらっていること、
こうして生かされていることがありがたくて……。

でも、言ってみれば、ただ、それだけなんですね。

「酸素の性質がどう」とか、
「酸素と窒素の割合がどう」とか、
まあ、あくまで比喩ですけれど、
そういうことを細かく探って言葉にまとめて発表するのは、
やっぱり、私の仕事じゃないんじゃないかなあ、と。
そこに関しては、すでに素晴らしい専門家の先生方が
たくさんいらっしゃるのだから、と思ったんですね。
そもそも土俵が違っていたというか(笑)。

私は、ただ、ひとつのなにものでもないいのちとして、
「空」やら、「色」やら、「縁起」やら、
「無常」やら、「無我」やら、「涅槃」やらを、
ごくごくふつうに、当たり前に生きて、
そこからでてきた言葉を、混じりっ気なく、
飾らず、ありのままに伝えていこう、と。
それが、いま、私がいちばんやりたいことだし、
やるべきことなんじゃないかなあ、と。

で、少し前から、実際にそうしているんです。

別の言い方をするならば、私の中で、
仏教をはじめとする本質的な智慧が指し示すなにかを
「信じる」フェイズが終わったんですね。

いまは、「信じている」というよりは、むしろ「疑っていない」。
一切の力みがない中で、ほんとうに当たり前に、
ごくごくふつうにそこを生きている。

これができるようになってから、
表現するものも、おのずから変わっていったのでしょう。

面白いものだなあ、と思います。
自分の変化が、すごくすごく面白いです。

そうそう。
冒頭のツイートのあとに、こんなつぶやきも載せてみました。

まあ、いまは、そういうフェイズだ、ということですね。あくまで、いまは、です。飽きっぽい私のことです、どうせすぐ変わるのでしょうけれど(笑)。でも、いまは、いましかないですから。いま「たのしもう!」という気分があるのなら、それに素直にしたがって、精一杯「踊る阿呆」をやるだけですね。

同じ阿呆なら踊らにゃ損損!

刻々に移り変わっていく目の前の景色と、
遊ぶように、踊るように、生きていきます。

よい一日をお過ごしください◎