変化の春

2015年4月2日

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

 

死ぬる時節には死ぬがよく候

 

是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候

 

(良寛禅師)

 

 

 

 

 

 

 

変化というものが苦手でした。

 

ゆえに、毎年春は疲弊していました。

 

桜も私をなぐさめてはくれませんでした。

 

うつくしく咲いたはいいけど、あれよあれよという間に風に舞い散りサヨウナラ……

 

その気ぜわしい感じが、まったく好きになれなかったのでした。

 

 

 

今年の春、どういうわけか私はやけに落ち着いています。

 

公的なところでも私的なところでも、かつてないほどの変化の波が私の身を訪れているにもかかわらず、

 

私のこころはものすごく落ち着いていて、必要以上に感傷的になることもなく、うつりゆくすべてを、そのままに、ただ、眺めているのです。

 

いや、はっきり言って忙しいんです。

 

暇そうに見えるかもしれないけれど(間の抜けた顔ですみません)状況的には、まあ、結構忙しい。

 

でも、落ち着いています。

 

びっくりするほど、落ち着いています。

 

 

 

なんでだろう? と考えてみて、ああ、そうか……と。

 

自分はいま、「変化」そのものになっているのだ、と。

 

高速回転するコマの軸……とか言ったらちょっとかっこよすぎるけど(あはは!)

 

まあ、あれに似て、かなりブレの少ない位置にいることができているのかもしれないな、と。

 

そんなところに思い至りました。

 

 

 

「変化」は「へんげ」とも読めますね。

 

辞書を引いてみたら、

 

「形が変わって違ったものが現れること。神や仏が仮に人の姿となって現れること。」

 

と出てきました。

 

 

 

「一切衆生悉有仏性」

 

生きとし生けるものは、皆、仏性を備えている……

 

私たちは、みな、「たったひとつ」の“仏”が変化(へんげ)してあらわれたものなんです。

 

この世に存在するありとあらゆるもの、みな、違う姿かたちをしているけれど、

 

ほんとうは、すべてが同じ、「たったひとつ」の多様なあらわれにほかならないのですね。

 

 

 

「変化」はさまざまな状況を生むけれど、そのさまざまな状況を生んだ「変化」という動きそのものは、実はなにひとつ変わることなく、「いま」「ここ」に「ある」。

 

変化がつらいのなら、自分が変化そのものになってしまえばいいんです。

 

 

 

今朝、ツイッターをのぞいていたら、ある方が、とても素敵なつぶやきをポストされていました。

 

引用させていただきます。

 

 

 

友人が北海道で自転車を漕いでいたときの話

 

自転車を漕いでいて暫くして違和感に気付いたそうだ

 

自転車を漕いでいるのに「風を感じない」と

 

彼は暫くの間、風とまったく同じ方向、同じ速度で、自転車を漕いでいた

 

自分がまわりと調和すると何も感じなくなるというその体験がとても羨ましかった

 

 

 

「それ自体になる」って、まさに「妙法」なのだと思います。

 

風自体になって、波自体になって、この大変化の春を爽やかに生きぬいていきたいと思います。