違和感の効用(マグリットと仏像 part.2)

2015年4月3日

先日の「マグリットと仏像」という記事でも書きましたが、

 

一見して「ふつう」だけど、見れば見るほど「ふつうじゃない」ものと接したときにこそ、

 

「ほんとう」に触れるチャンスが開かれているのではないかな、とあらためて思います。

 

そのもの自体が「ほんとう」というわけではなく、

 

それに接したときの自分のこころの動きの先に、「ほんとう」がひそんでいる可能性がある、ということです。

 

 

 

マグリットの絵も、仏像も、一見して見慣れたもののように思えるんです。

 

ふつうの風景画でしょ? とか、

 

ちょっと太ったパンチパーマのおじさんの像みたいなものでしょ? とか。

 

でも、マグリットの絵は、見れば見るほど「静かに狂っている」(これは旦那さん(になる人)の表現)し、

 

仏像は、実はまったく人間のかたちをしていません。

 

それに気づいたときの強い違和感、もっと言えば恐怖感が、

 

私たちを「ほんとう」の世界へと向かわせるような気がしてならないのです。

 

 

 

それっぽいけど、ぜんぜん“それ”じゃない……

 

そこに生まれる「ズレ」が、翻って、この「現実」を解体していくんですね。

 

「私たちが“現実”だと思っているこの世界こそ、虚構なんじゃないの?」

 

「“ほんとう”の世界があるんじゃないの?」

 

「“ほんとう”って、なに?」

 

 

 

仏像は「像」であり、「仏」本体ではありません。

 

「仏」が宿っている……という言い方もありますが、

 

私は、「仏像」は、「仏」にアクセスするための装置、なんじゃないかと思っていて。

 

いや、装置といかいうとぜんぜんロマンがないし、お寺の人に怒られてしまうかもしれないのですが……

 

「人間っぽいけど、ぜんぜん人間じゃない……」

 

「じゃあ仏ってなに???」

 

というこころの動きが、「仏」=「ほんとう」へと向かわせる契機になる……

 

そういう意味で、非常に優れた装置なんじゃないかな、と。

 

よくできているなあ、と思うのです。

 

 

 

違和感のない世界こそが良い世界だということは良く聞かれるし、

 

それはある意味ではぜんぜん間違っていないのですが、

 

でも、強い違和感こそが、「ほんとう」への道しるべとなる場合だってあるんですね。

 

 

 

このこころの動きは、一体自分になにを伝えようとしてくれているのか……

 

いつだって耳をすませていたいなあ、と思うのです。