仏道、キリスト道

2015年4月12日

ありがたいご縁をいただきまして、この春より、藤田一照さんというお坊さんを塾長とした『仏教的人生学科 一照研究室』という、若い世代向けの仏教塾のお手伝いをさせていただいています。

 

昨日が開講初日でしたが、私、もう、ずーっとわくわくしていました。

 

スタッフとしてというより、一参加者として楽しんでしまった感じでした。(だめじゃん……!)

 

あのような柔軟で力強い、まったくあたらしい学びの場がこの世界に誕生したことを、こころの底からうれしく思います。

 

目をきらきらさせて「仏教」に触れていく若い方々の姿に(と言ってもたぶんほとんどのみなさんが私より年上だと思いますが……)

 

「世界の未来は明るい!」

 

なんてことを、大げさじゃなく感じてしまいました。

 

 

 

「仏教《する》」

 

塾の中で、藤田さんは、繰り返し繰り返し、上記のようなことをおっしゃっていました。

 

「仏教」を動詞としてお使いになっているのですね。

 

すごく素敵だなあ……と。

 

ものすごく本質をついているなあ……と。

 

って、私「ナニサマ!?」という感じですが。(ごめんなさい。)

 

 

 

私はよく、いろんな方に、

 

「本当に仏教が好きなんだね~」

 

といったようなことを言われます。

 

でも。

 

正直、そのたびに、

 

「そ、そう、なのか……?」

 

と、たじろいでしまう自分がいるんですね。

 

「その表現は、果たして本当に正確なのか……?」

 

と。

 

いや、確かに、決して「嫌い」じゃないです。それは間違いないです。

 

「愛憎半ばする」感じ、ともまた違います。

 

うーん……

 

なんだろな。

 

「好き」と無邪気に言い放つには、あまりにも自分と仏教とが一体化してしまっているというか……

 

だからと言って、「教え」が浸みこんでいる、というのともまた違う気がするし……

 

というか、それだけがすべてじゃないというか……

 

とにかく、私にとって「仏教」というのは、もはや、対象化できるようなものじゃないんですよね。

 

 

 

先日、夫とのメールのやり取りの中で、

 

「“仏教”というより、“仏道”と言い方の方が、実はしっくりくるよね」

 

という話題になったのですが、

 

(形而上の話題:形而下の話題=9:1な夫婦です……)

 

これ、本当なんです。

 

少なくとも、私の実感としては(というより、私の「関わり方」としては)、「仏道」の方が、より正確なんですね。

 

 

 

「教え」というと、どうしても、「誰かになにかを教えてもらう」とか「勉強するためのもの」という感じで、

 

“仏教”が自分の外側にあるもののように捉われてしまいがちだけれど、

 

でも、ほんとうは、“仏教”は自分と切り離したところには決して存在できないはずのもので。

 

ほんとうは、いま、ここ、すべてが、そっくりそのまま“仏”の世界なんですよね。

 

なにひとつとして、“仏”のあらわれでないものはないのだから。

 

そんな世界を、私たちは生きています。

 

意識しているにしろ、していないにしろ、それは事実なんです。

 

 

 

それならば、「教え」よりも「道」の方が正確でしょう。

 

「道はここにあって、その上を自分が歩いているわけだからね。一体となって。」

 

「教えがあっても、ふーん、そうって感じになり得るけど、道があったら歩くしかないじゃん。歩くのは自分だし。」

 

とは夫とのメールのやりとりからの転載ですが(あらためて、「すさまじい」夫婦ですね、我ながら……)

 

まさにその通りで。

 

意識するにしろ、しないにしろ、いま、ここにある道は、すべて「仏道」なんですね。

 

 

 

「教え」という言葉は扱い注意ですね。

 

「自分事」として捉えてはじめて、“仏教”は「いのち」を持ちはじめます。

 

外側のものとして教えてもらったり、座学的に勉強したりしているうちは、

 

実はまだ、仏教のほんとうのところには触れていないよ、と言わざるを得ない。

 

いや、最初のうちは、そういう関わり方でもぜんぜんいいんです。

 

でも、決してそれがすべてじゃないよ、と。

 

ほんとうは、もっともっと、圧倒的な広がりをもったものなんだよ、と。

 

というか、文字通りすべてが“仏”なんだよ、と。

 

生意気にも言いたくなってしまうんですよね……。

 

あはは。ほんと生意気ですね~(笑)

 

 

 

「仏」と一体となって歩く道=「仏道」。

 

なんかね、もう、「道」でいいじゃない、と。

 

「教」をやめて「道」にしてしまおうよ、と。

 

そっちの方が、きっと誤解は少ないよ、と。

 

いや、いま現在そうなっていないということは、きっと歴史的にその言葉を採用できないなんらかの事情があるのでしょうけれど、

 

でも、私の実感としては、「道」の方に圧倒的に軍配が上がるところなんですよね。

 

 

 

仏道。

 

ブッダの教えをありがたく拝受するだけでなく、

 

自らをブッダ(=目覚めたもの)として歩んでいく。

 

ブッダとしての自分が歩んだ道が、そのままイコールで「仏道」になる。

 

 

 

キリスト道。

 

キリストの教えを忠実に守るだけではなく、

 

自らをキリスト(=救世主)として生きていく。

 

キリストとしての自分が歩んだ道が、そのままイコールで「キリスト道」になる。

 

 

 

「仏道」や「キリスト道」は、

 

そのままイコールで、「自分道」になります。

 

この「自分」っていうのは、個別の肉体に閉じ込められた個別の意識、たとえば「小出遥子」のことではありません。

 

「小出遥子」の意識が消えたときに現れ出てくる、全世界をそのまま自分とする「自分」のことです。

 

その「自分」は、もはや「仏」だし、「神」にほかなりませんよね。

 

 

 

それこそが、ほんとうのところなんじゃないのかな、と。

 

そんなことを思う昨今です。

 

 

 

昨日出会った法友(ダルマフレンド? ダルマブラザー?)のリクエストにお応えして、日曜の朝から暑苦しくもこんな記事を書いてみました。

 

O野さん、読んでる~?(笑)