四次元ラッキョウとしての私

2015年4月13日

小松左京氏の作品に、『四次元ラッキョウ』という名作ショートショートがあります。

 

剥いても剥いても決してなくなることのない、奇妙なラッキョウのお話です。

 

 

 

最近の私、この四次元ラッキョウになった気分なんです……。

 

なんというか、こう、

 

「生まれ変わりました~!」

 

みたいなののサイクルが非常に早くてですね。

 

古い自分を脱ぎ捨てて意気揚々と次の場所に向かうその途上で、すでに、頭のてっぺんからバリバリという音がして、

 

その裂け目から

 

「はい、あたらしい私、またまたご誕生~!」

 

みたいなことが多すぎるんですね。

 

……意味、伝わりますか?(笑)

 

 

 

「さっきまでの自分、サヨウナラ。まっさらな私として生きていきます!」

 

なんてことを口に出している間にも、すでにその「まっさらな私」は劣化を始めていて、

 

(劣化って、かなり強い言葉ですが……)

 

次の瞬間には「はい、脱皮スタート!(バリバリバリバリ……)」みたいなことが起きている……。

 

剥いても剥いても「あたらしい私」が出てくるんです。

 

はっきり言って、キリがありません。

 

 

 

これは少し前に書いた「層構造になった“覚悟”」ともつながるお話です。

 

「覚悟」って、決して固定化された状態で存在するものじゃないのですね。

 

その存在自体が四次元ラッキョウというか……常にあたらしくなり続けている必要がある。

 

「これでOK! この“覚悟”さえ持てたらもう大丈夫!」

 

なんてものは、もしかしたらどこにもないのかもしれません。

 

 

 

脱皮に次ぐ脱皮って、まあ、気ぜわしいと言えば気ぜわしいのですが、

 

でも、決してつらくはないんです。

 

脱皮をしている自分自身が、すでに固定化されているものじゃないような気がしているからです。

 

なんだろな。

 

脱皮をしている自分と、脱皮を求めてくる世界との間に境がないというか。

 

個別の肉体を持った自分という存在をも含んだ世界まるごとを「ほんとうの自分」だと感じているというか。

 

そっちに「ほんとう」を置いていれば、実はなにも変わっていないというか。

 

個別の変化、脱皮、アップデートすら、超巨大で果てのない「不変」の一部というか。

 

「変わりゆく変わらないもの」こそ、自分の本体。

 

だから、根本的なところでは、まったくつらくないんです。

 

……意味、伝わっていますか?(笑)

 

 

 

「固定化されたなにか」なんて、すべて幻想なのでしょう。

 

四次元ラッキョウ、上等です!

 

 

 

今日も元気に四次元ラッキョウやっていきます。

 

あ、ほら、そうこうしているうちに、また頭のてっぺんからバリバリと……