「あなたの望みはなんですか?」

2015年4月16日

「あなたの望みはなんですか?」

 

私が頻繁に問いかけることです。

 

問いかけの対象は、「自分」です。

 

 

 

上記の問いを投げかけると、たいてい、「自分」の中からは二つの声が聞こえてきます。

 

「“小出遥子”としての『自分』は、このようになりたいです」

 

「“それ”そのものとしての『自分』は、このようでありたいです」

 

二つ目の“それ”っていうのは、つまり、「小出遥子」という個別の意識が死んだところにただただ「在る」ものを指します。

 

(それを人々は「神」とか「仏」とか「自然」とか「宇宙」とか「光」とか「愛」とか呼ぶのでしょう。)

 

“それ”は個別の意識に遮られて、ふだんはその姿を巧妙に隠していますが、実はいつだってここに「在る」のです。

 

 

 

二つの声が聞こえたとき、ほんとうに優先すべきは後者の自分の望みです。

 

いや、前者の声に気をとられてしまうのもわかります。

 

前者の声に比べて、後者の声は小さいんです。

 

小さいし、地味なんです。地味で、まったく目立ちません。

 

そもそも望み方からして、あまりに控え目じゃないですか。

 

「こうなりたい」

 

 

「こうありたい」。

 

ね? 後者の方が、圧倒的に、地味でしょう?

 

でも、ほんとうの満足は、見た目の派手さ、地味さにかかわらず、

 

「なりたい」よりも、「ありたい」が叶えられたときに、もたらされるものだったりするのです。

 

 

 

前者の望みでは、それが叶えられたところで、一時的な高揚感しか味わえません。

 

「叶ったー! やったー! すげー! うれしー! ……で? だから?」

 

その「で? だから?」に答えを出すことができないまま、どこか釈然としない気持ちで、またあらたな「なりたい」を見つけ出し、それを叶えるための人生を再びスタートさせて……

 

キリがないんです。

 

「なりたい」を追い求めるだけじゃ、いつまで経っても、気が休まらないんです。

 

 

 

それに対して、後者の望みが満たされたところにあるのは、恒久的な「しあわせ」です。

 

それは、時間や空間を超えて、ただただ「在る」んです。

 

 

 

ところで、いままで、便宜上、前者や後者という言い方をしてきましたが、ほんとうはそこに区別はなくて。

 

個別の意識を持った自分っていうのは、実は“それ”そのものとしての自分を母体として生まれているんです。

 

なんのために?

 

正確なところは私にはわかりません。

 

でも、たぶん、後者の自分にはできなくて、前者の自分にはできることが、たくさんあって。

 

(たとえば、後者の自分には肉体がありません。肉体がなければできないことって、数えきれないほどにあるでしょう。そういったことです。)

 

後者の自分の「ありたい」を叶えるために、前者の自分を上手に使うことが必要なのでしょう。

 

 

 

いつだって優先すべきは、“それ”そのものとしての自分の望みなんです。

 

個別の意識を持った自分の望みにばかり気をとられていたら、いつまで経ってもほんとうの満足、ほんとうのしあわせを知ることはないでしょう。

 

 

 

たぶん、人はいつだって「しあわせ」を求めていて。

 

でも、ほんとうの「しあわせ」の在り処、その方向性を知らないがために、

 

個別の意識を持った自分の声を聞き入れることにばかりエネルギーを使ってしまうのだと思う。

 

そうしてどんどんどんどん疲弊していってしまうのだと思う。

 

どんどんどんどん疲弊して、

 

どんどんどんどん自分に対しても周りに対してもやさしくあるということができなくなっていって、

 

どんどんどんどん傷つけ合いのループにはまりこんでいってしまうのだと思う。

 

 

 

声の大きさや見た目の派手さにまどわされずに、自分のほんとうの望みを知り、

 

それをいかに叶えていくかということを常にこころに置いて、日々の行動を選択していけば、

 

ありとあらゆることが、びっくりするほどスムーズに展開していくようになるのでしょう。

 

そうして、自分に対しても、人に対してもやさしい、「愛」あふれる世界があらわれてくるのでしょう。

 

 

 

道がわからなくなったら、思い切って立ち止まって、自分自身に問いかけてみてください。

 

「あなたの望みはなんですか?」

 

二つの声が聞こえたとき、優先すべきは、より、声の小さい方です。

 

そこに“あなた”の望む、ほんとうの「しあわせ」があります。