祝福の瞬間

2015年4月20日

昨日、私のお茶をご指導くださっているN先生(70代少し手前ぐらいの男性です)から、面白いお話をお聞きしました。

 

先生はずっと学芸員職に就かれていた方なのですが、彼がまだ学生だった頃、お師匠さんとともに、奈良の唐招提寺に調査に出かけたのだそうです。

 

調査中、奈良時代のトイレ(と言っても屋外に掘った簡単な溝のようなものらしいのですが……)で、お師匠さんと二人並んで用を足す、といった経験をされたのだそうですが(笑)

 

そのときに、お師匠さんがつぶやいたひとことが忘れられない、ということでした。

 

「なあ、Nくん。鑑真さんも、いまの俺たちと同じように、ここに立って小便してたんだよなあ……」

 

そのつぶやきを聞いた瞬間、当時学生であったN先生の全身に電流が走ったのだそうです。

 

「ああ、“歴史”って、このことなのか……!」

 

と。

 

自分のやってきたこと、やっていること、そしてこれからもやっていくことであろうことの意味が、全力で、真に迫って理解できた瞬間だった、と。

 

 

 

ああ、とても素敵なお話だなあ……とうっとりしてしまいました。

 

(注:先生の立ちション姿を想像してうっとりしたわけではありません。)

 

これは「フィクション」が「フィクション」じゃなくなる瞬間のお話だったのだと思います。

 

(注:「立ちション」と「フィクション」をかけているわけではありません。)

 

 

 

畏れ多くも、ここで私自身の話をします。

 

私にも、これに少し似たような経験があって。

 

 

 

数年前に、京都の大原三千院をひとりで訪れたときのことです。

 

そこの往生極楽院には、ものすごく有名な阿弥陀三尊像が安置されているのですが、

 

私、もう、その三尊の前で座り込んだが最後、動けなくなってしまったんですね。

 

なんだかもう、一秒たりとも目の前の仏さまから目が離せなくて、でも、自分になにが起こっているのかをまったく言葉にすることができなくて……。

 

私はそれまでに、かなりの数のお寺を回って、そこでかなりの数の仏像に手を合わせてきました。

 

私にとってお寺や仏像は「よくわからない。でも惹かれる」ものの代表みたいな存在でした。

 

その感覚だけを頼りに、暇さえあれば全国のお寺を参拝して回っていたのでした。

 

でも、こんな風に、仏像の前で動けなくなってしまったのは、それが初めてでした。

 

 

 

そんなときに、たまたまそこにいた、そのお寺のお坊さん(まだ若い感じの方でした)が、こんな風に話しかけてきてくれました。

 

「あなたには、この仏さまの姿が見えますか?」

 

お坊さんの言わんとしていることが掴み切れずに戸惑っていると、彼はやさしく微笑み、こう続けました。

 

「あなたにこの仏さまの姿が見えるならね、あなたの中に、仏さまがいらっしゃるということなんですよ」

 

 

 

あなたの中に、仏さまが――?

 

私の中に、仏さまが――!!!

 

 

 

気がついたら、涙があふれて止まらなくなっていました。

 

「号泣」なんてもんじゃない、ほとんど「慟哭」と言ってもいいぐらいの、激しい泣きっぷりでした。

 

時間にして30分は泣き続けていたと思います。

 

それは、圧倒的な安心感の中で起こりました。

 

激しく泣きじゃくりながらも、私は巨大な安心感に包まれていたのです。

 

それが、私にとって、仏教が「フィクション」でなくなった、大きなきっかけの第一波となりました。

 

 

 

自分の中に蓄積された「フィクション」が、なにかのきっかけで「フィクション」なんかじゃなくなってしまう――

 

「自分」の内側と外側との境界が溶け出して、そのまま直に「世界」に触れるようになる、

 

「世界」そのものとしての「自分」がそこに出現する、

 

「世界」そのものとして「自分」を、「ほんとうの自分」として生きはじめる――

 

そんな瞬間こそを、「祝福」と呼ぶのでしょう。

 

 

 

「よくわからない。でも惹かれる。でも、やっぱりよくわからない。それでも、そこにはなにかがぜったいにありそうな気がする……」

 

そんなこころの揺れの先にあるものを、一滴一滴、コップに水をためるように、地道に、大切に蓄積していったら、

 

ある瞬間、「最後の一滴」が注がれることによって、それらが一気にあふれ出し、

 

「自分」という存在のすべてを、そう、文字通り「すべて」を、圧倒的な力で包み込んでしまうんです。

 

 

 

コップになにもたまっていない状態で「それ」がやってくることはありえません。

 

水があふれ出す瞬間は派手だけれど、日々の蓄積はものすごく地味です。

 

それでも、その一滴一滴がなければ、圧倒的な祝福に包まれる瞬間も、また、やってこないのですね。

 

 

 

「それ」が、いつ、どんな瞬間にやってくるかは、誰にもわかりません。

 

でも、「それ」がくる前提条件をまずは整えておかないことには、なににもならないんです。

 

「よくわからない。でも惹かれる……」

 

その「なにか」(それは個人個人で少しずつ違うものなのだと思います)に、何度も何度も触れていった先に、

 

自分にとって必要なことが起こってくるのではないかな。

 

 

 

 

 

願わくば、すべての存在に大いなる「祝福」あらんことを。

 

合掌