「軸」とか「芯」とか。 その2

2015年4月25日

少し前に【「軸」とか「芯」とか。】という記事を書きましたが、

 

あれからも、ず~っとこれの議題(?)について考え続けています。

 

小出さんも暇ですね~。

 

 

 

まあ、結論としては、結局、前回と同じで、

 

「軸」やら「芯」やらはカチカチに固い一本の棒のようなものじゃなくて、柔軟性そのものだ、

 

というところなのですが、今回はちょっと違う言い方でそれを表してみます。

 

 

 

この世の中に、固定されたものなんかありません。

 

すべては移りかわっていきます。

 

あんなに派手に咲き誇っていた花もあっという間に散っていき、

 

いまでは初々しい若葉が枝の先をにぎわせています。

 

この葉も、やがては茶色くなって、地面に還っていくでしょう。

 

人間だってそうです。

 

みんな、死にゆく存在です。

 

自分だけは老いたくない! と叫んでも、それは無理な相談です。

 

しわや白髪は日々確実に増えていくし、それを免れる人はいないんです。

 

昨日の私と、今日の私は、細胞レベルで見れば、実はまったくの別人です。

 

 

 

だからどうということもありません。

 

ただ、それが当たり前なのだというだけです。

 

 

 

すべては移り変わっていく、なにひとつとして確かなものなどない、

 

そんな世の中で、唯一「確か」と呼べるのは、

 

「すべては移り変わっていく、なにひとつとして確かなものなどない」

 

その事実、それ自体なんですね。

 

なんだか逆説的ではありますが……。

 

すべてを移り変わるものとして存在させている“なにか”だけは、

 

決して移り変わることがないんです。

 

 

 

すべてが移り変わるこの世の中において、「軸」やら「芯」やらを打ちたてようとしたって土台無理なお話で。

 

だって、その「軸」やら「芯」やらだって、「これだ!!!」と打ち立てた瞬間に、すでに古くなっているんです。

 

「軸」やら「芯」やらを打ち立てる自分自体、刻一刻と古くなっているのだから。

 

 

 

ただ、ひとつだけ抜け道があって。

 

それは、すべてを移り変わらせている“なにか”こそを、自分の存在の「軸」にしてしまうこと。

 

その“なにか”こそを、「自分のほんとうの姿」なのだと認識してしまうことです。

 

 

 

「自分」というのが、この狭苦しい肉体に閉じ込められた、この個別の意識(たとえば「小出遥子」)のことではなく、

 

全世界にあまねく広がる意識、

 

というか、全世界、それ自体のことを指すことばだとしたら……?

 

そして、それが、まったき事実なのだとしたら……?

 

少し、想像してみてください。

 

 

 

世界は自分だし、自分が世界。

 

そうだとしたら、自分の行く道すべてが自分なわけで、

 

そうなってくると、そこからブレようとしたって、そんなことはできないし、

 

そもそも「ブレる」という概念すら生じなくなるわけで。

 

 

 

すべてを「自分」として生きること、

 

それは決して難しいことではありません。

 

だって、本来私たちは「それ」なんだから。

 

あたらしい知識として(むりやり)「身につける」のではなく、

 

元々そうであったことを(自然に)「思い出す」だけでいいんです。

 

そして、実は、私たちは、日々の中で、少しずつ「それ」を「思い出」しているんです。

 

「プチ悟り」とでも呼ぶべき瞬間は、割とふつうに日常の中に存在しているんですね。

 

ただ、あまりにも、個人個人のストーリー、私の場合で言えば「小出遥子」のストーリーが強すぎて、

 

その「プチ悟り」によって見た世界を、「夢」だとして処理してしまうんです。

 

ほんとうは、「小出遥子」のストーリーの方が夢なのに……。

 

 

 

「軸」や「芯」なんて、無理に打ち立てようとしなくても、すでに自分の中にあるのだと思います。

 

というか、「自分」という存在、そのものが、すでに「軸」であり、「芯」なのです。

 

 

 

大丈夫。誰一人、ブレている人なんかいないよ。

 

あなたはいつだって世界のど真ん中で生きています。

 

というか、あなた自体が、世界です。

 

世界は、あなた自身です。

 

 

 

ものすごく意味が分かりづらい話だと思うけれど、

 

まあ、無理に理解しようと思わなくてもいいです。

 

ただ、思い出してください。

 

「それ」こそが、あなたです。

 

 

 

 

 

素晴らしき日を。