お天道さま、なんというかありがとう。

2015年4月27日

昨日の東京はとても良く晴れていたので、よろこんで布団を干しました。

 

日に当てていたのはほんの数時間だけなのに、夜寝るときもまだぽかぽかで、

 

太陽のにおいのする布団にくるまりながら、思わずニヤニヤしてしまうのを抑えることができませんでした。

 

でも、太陽の実力はそんなもんじゃなかった……!

 

今朝、起きて布団を出た瞬間に思ったんです。

 

「……!? なんだか足先があたたかい……???」

 

そうなんです、私はとても冷えやすい体質で、

 

季節を問わず、朝起きたときに、すでに足の指先に冷えを感じるのが常だったのですが、

 

今朝に関しては、そのひんやり感が微塵もなく……!

 

ちゃんと足先まで血が巡っている感じがしたんですね~。

 

これ、考えられる原因はただひとつで。

 

「お天道さま、なんというかありがとう……!」

 

というところで。

 

太陽とは、なんとありがたい存在なのでしょうか……。

 

しみじみ、感動いたしました……。

 

なむなむ!!! です。

 

 

 

……いや、でも、これ、冷静になって考えてみれば、

 

お天道さまの方では、別に、

 

「小出の足先の血行をよくしてやろう」

 

なんてことは、多分これっぽっちも思っていないわけで。

 

それどころか、

 

「布団の湿気を取り去ってやろう」

 

とか、

 

「殺菌してやろう」

 

とか、

 

そんなことすら思っていないわけで。

 

太陽は、ただただ太陽をやっているだけなんですよね。

 

でも、そこにこそ、人間の学ぶべき姿があるような気がするんです。

 

 

 

人間も、その人その人にとって、もっとも「自然」な姿でいるときに、

 

もっともその存在自体が輝いて、周りの人々にも力を与える存在になるんじゃないかな、と思うんです。

 

「あたためてあげよう」とか、「やさしくしてあげよう」とか、「励ましてあげよう」とか、

 

そんな風に無理に思わなくても、

 

その人がその人としているだけで、周りが勝手に力をもらって、元気になっていく。

 

それこそが「自然」というものなんじゃないのかな、って。

 

 

 

四国のお遍路中にもよく思いました。

 

道端に楽しげに咲く花々だとか、そよ風に葉を揺らす木々だとか、

 

それらのうち、どれかひとつでも欠けていたら、私はあの道を歩き通すことはできなかっただろうな……

 

そう思うようなところが、いままでにもいくつもあって。

 

彼らの存在に、私は、ものすごく励まされたんです。

 

でも。

 

花々や木々は、決して、「小出を力づけてあげよう」なんてことを思って、そこに咲いていたり、立っていたりしたわけじゃなくて。

 

彼らはただただ彼らとして生きていた、

 

そこに、私が勝手に励ましを見出していただけなんです。

 

 

 

どんな存在だって、きっと、そもそもその存在だけで、他を利するように作られていると思うんです。

 

その存在が、ごくごく「自然」に、「その存在」としてそこにあるだけで光を放ち、

 

その光が周りをも照らして、照らされた存在がまたその周りを照らして、

 

そうやって世界は光に満ちた場所になっていく……。

 

それが、世界の本来の姿なのだろうな、と。

 

 

 

いや、もちろん、

 

「あの人にやさしくしてあげよう!」「励ましてあげよう!」「力になってあげよう!」

 

そんな風に思ってする行為だって、ものすごく尊いものだと思います。

 

でも、そこに少しでも「無理」、つまり「理(ことわり)」の「無い」こと、

 

もっと言えば「不自然」なものがあったら、

 

結局、相手も、そして自分をも、さらに疲弊させてしまう……といった悲劇が起こってくるんですね。

 

 

 

「自然」には、「無理」がないんです。

 

だって、「自然」そのものが「理(ことわり)」なのだから。

 

そもそもそうあるべき姿で「ある」だけなのだから、無駄な力なんか入りようがないんですね。

 

そして、それこそが、実はもっとも調和的で、自分も周りもしあわせな姿なのだと思う。

 

だって、もともとはぜんぶがひとつだし、ひとつでぜんぶなのだから。

 

……って、最後いきなりぶっ飛んだ???

 

いまの、「自然」じゃなかった???笑

 

 

 

 

 

「自然」に、生きたいですね。

 

いや、「自然」そのものとして、生きたいですね。

 

「自然」そのものとして、生きていきましょう。