すでに全員「仏」です。

2015年4月28日

人はかならず成仏します。

 

これはもう、絶対的な確信をもって言えることです。

 

もう一回言います。人はかならず成仏します。

 

いや、「成仏」とか言うと、「仏」に「なる」イメージが浮かんでくるけれど、

 

そもそも、私たちは、ひとり残らず「仏」で「ある」んです。

 

だから、こっちの言い方の方が正確かな。

 

人は、すでに全員成仏しています。

 

「仏」でない人なんか、ひとりもいないんです。

 

 

 

「死」と「成仏」ということばには、切っても切り離せないような関係性があるような気がしてしまうけれど、

 

実は、「死」と「成仏」は、かならずしもセットで語られるべきものでもないんです。

 

ただ、人は、「死」の瞬間に、最大のチャンスを得ることは確かです。

 

「なんだ。自分はそもそも“仏”だったんだ。」

 

そのことに気づくチャンスです。

 

そして、このチャンスを逃す人はいないんです。

 

 

 

人は「死」の瞬間に、かならず、そもそも「仏」であった「自分」を思い出すんです。

 

自分が自分だと思っていた自分(例:小出遥子)はおらず、

 

そこにはその自分(小出遥子)を超えた、世界そのものとしての自分(仏)がいる、または「ある」だけだった。

 

みな、そこに気づくんです。

 

 

 

「死」は最後にして最大のチャンス(そしてそれに失敗する人はいない)ではありますが、

 

逆に言えばそれだけで。

 

「死ななきゃ“成仏”できない」なんて嘘っぱちで。

 

だって、私たち全員、そもそも「仏」で「ある」のだから。

 

「成仏」していない人なんて、この世界にはいないんです。

 

生きていても、死んでいても、「成仏」しているんです。

 

誰だって。

 

ほんとうは。

 

 

 

ただ、その「自覚」があるかどうかっていうのは、確かに、大きな違いに見えるかもしれませんね。

 

「自分の正体は“仏”である」というところを生きている人と、

 

「自分の正体は“個別の意識”(例:小出遥子)である」というところを生きている人。

 

 

 

でも、そうは言っても、どうせみな、いつかは気づくんです。

 

生きているうちに気づく人もいれば、死の間際になって「そうだったのか!」となる人もいる。

 

そして、その両者に訪れる「気づき」の質に違いはありません。

 

ただ、それが「いつ」起こるのか、というところにだけ「違い」らしきものがあるんです。

 

でも、「時間」という概念すら、「仏」の世界には存在しないので、

 

たとえ27歳で気づこうが、53歳で気づこうが、死の直前に気づこうが、

 

言ってしまえば、「いつ」気づこうが、気づいてしまえば、結局、まったく同じことなんですよね。

 

 

 

いや、ほんとうに、まったく同じことなんです。

 

それならば、そんなに深刻にならなくてもいいんじゃない?

 

いま、リラックスして生きちゃってもいいんじゃない?

 

 

なんかね、結局、そこに辿り着くんですよね……。笑

 

 

 

人はかならず成仏します。

 

というか、すでに全員成仏しています。

 

自覚があろうがなかろうが、私たちは、全員、「仏」です。

 

仏さまらしく、ゆったりと構えて生きてもバチは当たらないよ。笑

 

だって、バチを当てる仏さま自体、「自分」なのだから。

 

 

 

東京は今日もいい天気です。

 

気楽に生きていきましょう~