「目指す」をやめる。

2015年4月29日

いま住んでいるマンションの目の前には大きな川が流れています。

 

川辺では、毎日、早朝から、たくさんの人たちがジョギングやウォーキングに勤しんでいて、

 

PCのある部屋からは、その様子を眺めることができます。

 

 

 

私は運動全般得意ではないし、そもそもあまり好きではないので、

 

彼らの姿をまぶしく思うと同時に、「いったいなんのために……?」と思う気持ちも正直あって……。

 

 

 

でも。

 

違うんですね。

 

きっとそういうんじゃないんです。

 

 

 

だって川辺を走っている人たち、みんな、どこか楽しそうなんだもん。

 

もちろん、なかにはものすごく辛そうな人もいるけれど、

 

毎日見かけるような人は、淡々としているように見えて、やっぱりどこか楽しそうにジョギングやウォーキングを続けている。

 

遠くから走り方を見ているだけでわかるんですね。

 

後者の人たちは、なんというか、軽やかで、爽やかなんです。べたっとしていない。

 

そこにはきっと「目的」なんかないのでしょう。ただただ「やりたいから」やっているだけなんでしょう。

 

それが、なんだかいいなあ、と。

 

学ぶことが多いなあ、と。

 

そんな風に思うのです。

 

 

 

目がとこを向いているかっていうのは、なにをするにおいてもとても大事なポイントかもしれない、と思いました。

 

たとえばジョギングひとつとっても、

 

「いつかはやせたい……」

 

という気持ちで、未来に目を向けて走るのと、

 

「とにかく、走るのが楽しい!」

 

という気持ちで、いまだけに集中して走るのと、

 

どちらが軽やかで、かつ爽やかか、と問われたら、断然、後者ですよね。

 

 

 

前者が「軽やかでなく」「爽やかでない」理由は簡単です。

 

そこに、「いまの自分」への「否定」が含まれているからです。

 

 

 

「やせたい!」ということは、

 

「いまの自分はやせていない」と思っているということで、

 

もっと言えば「いまの自分じゃダメだ……」と思っているということで、

 

それを解消するために、自分の生活にジョギングの習慣を取り入れはじめたとしても、

 

そもそもの動機にマイナスがどっしりと横たわっているがために、

 

走っていても、やっぱり、どこか悲壮感漂う感じになってしまう……

 

というのは、とってもわかりやすいお話で。

 

 

 

いや、最初はそれでもいいんです。

 

というか、最初はそれが普通だと思うんです。

 

なんにせよ、人間がなにかをはじめる動機って、やっぱりどこか「こうなりたい」「ああなりたい」が先にあるのが当然だと思うので。

 

でも、いつかは結果志向を落として、「いま」目の前にあることにこころを込めていかないと、

 

いくらやっても苦しくなるばかりだし、

 

結果、当初の目標だって達成できなくなってしまうんじゃないかなあ……と。

 

 

 

その行為をしている「いま」に集中する、こころを込める、っていうのは偉大なことだな、と思うんです。

 

別にそこに必ずしも「楽しさ」という要素があるべきだとは思わないけれど(あるに越したことはないけれど)、

 

でも、少なくとも、悲壮感を漂わせることはなく、

 

ただただ淡々と「“いま”に集中して、“いま”にこころを込めて、“いま”やることをやる」、

 

それさえできれば、その人は、いつのまにか、「軽やか」で「爽やか」な雰囲気を持つようになっているだろうし、

 

さらには、「あれ、気がついたら当初の目的も達成していたわ~」みたいなことが起きてくるのでしょう。

 

そっちの方が、断然、「自然」ですよね。

 

そっちの方が、断然、いいなあ、と思います。

 

 

 

なにかを「目指す」ことは、なにも悪いことだとは思いません。

 

ただ、最初の動機に「否定」が含まれていないかどうか、

 

そして、目標を達成するためになにかをしている自分に「無理」がないかどうか、

 

それらは定期的にチェックしておいた方が良さそうだな、と思いました。

 

悲壮感漂わせてちゃ意味がないもの。

 

私は、軽やかに、爽やかに、「いま」を生きていきたいです。

 

軽やかに、爽やかに、「いま」を生きている人を、「自然」は好きだし、応援してくれるのだと思います。

 

 

 

私も、いま一度、チェックしてみます。