さよなら、”小出遥子”という名のフィクション。

2015年5月1日

少し前から気づいていたのですが、昨日の夜、完全に確信したのは、

 

「私、ぜんぜん人見知りじゃなくなっている……!」

 

ということ。

 

 

 

前はどうにもこうにも「初対面」というものが苦手だったんです。

 

だって緊張するから。

 

「相手」と「自分」との距離感を図るのに必死で、会話なんてろくろく楽しめないのが常でした。

 

 

 

でも、それがなくなった。

 

どういうわけか平気になってしまった。

 

どんな相手とも、最初から、ほとんど緊張せずに打ち解けられるようになった。

 

 

 

たぶん、

 

「“自分”なんてものはそもそも存在していない」

 

ということを知ってしまったからこそ、こういうことが可能になったのだろうな、と。

 

 

 

前は、とにかく、「自分」をアピールするのに必死だったんです。

 

“自分の思う”「自分」を、ということです。

 

「“小出遥子”はこんな人物です! 見て! 聞いて! 知って!」

 

ばかりが先立って、いま思えばぜんぜん「その場」にいられていなかった。

 

いや、いまでもそういった傾向が残っているところはあるのでしょうけれど、

 

それでも、かなりの部分まで消えてしまったように思います。

 

 

 

“小出遥子”なんか、そもそもフィクションなんです。

 

ほんとうはどこにも存在していない。

 

Aさんの思う“小出遥子”と、Bさんの思う“小出遥子”と、Cさんの思う“小出遥子”は、似たようなところがあったとしても、実はまったくの別人です。

 

接する人の数だけ“小出遥子”という物語は生まれます。

 

そして、その物語は、個々人の頭の中にしか存在しません。

 

実体のない幽霊のようなものです。

 

「私はこういう人間なんです!」と必死で誰かにアピールしたところで、

 

またひとつ“小出遥子”という名のフィクションが生まれるだけ。

 

そこに真実はありません。

 

 

 

せっかく縁あって出会った相手との対話の時間なのに、「自分」という名のフィクションの制作にばかり気をとられていたらもったいないです。

 

「相手の思う“自分”こそが、私。それでOK! なんの問題もない!」

 

そうやって肩の力を抜いて、その場その場の一期一会を全力で楽しめるような人こそを、

 

「人生の達人」と呼ぶのではないかな、なんてことを思います。

 

 

 

私もまだまだ“小出遥子”にこだわる部分もあるけれど、でも、少しずつでも、それをゼロに近づけていけたら素敵なことだな、と思います。

 

だって、生きていることを「直に」楽しみたいもの。

 

私は、自由を生きたいです。

 

 

 

 

 

今日もいいお天気です。