「指が月をさすとき、愚者は指を見る」

2015年5月21日

ごく最近、私がとても信頼しているある方から、「言葉は地図であって、現地ではない」といったニュアンスのことばを教えていただきました。

 

アルフレッド・コージブスキーという、ポーランド生まれの学者さんのことば、らしいです。

 

(正確には、彼が言ったのは「地図は現地ではない」だそうですが。えーと、ごめんなさい、wiki情報です……)

 

けだし名言。

 

激しくうなずきすぎて、首を脱臼しそうになるぐらいでした。

 

 

 

ほんと、毎日文章書いていて思います。

 

言葉っていうのは、なんて平面的で、限定的なんだろう、と。

 

いや、小出の言語が未熟すぎるがゆえに、伝えたいことを十分に伝えられない、という場面だって多々あるのですが(情けない……)、

 

そもそもの「言葉」というものの特性(それこそ「地図」であって「現地」ではないというところ)に起因するもどかしさも、日々、痛いほどに感じています。

 

 

 

言葉は、「それ」を指し示すものではあるけれど、「それ」そのものではないんです。

 

仏教にも「指月」という有名なたとえがあります。

 

月(=「究極の真理」)の浮かぶ方向を「ほら、あっちだよ~」と指をもって示すことはできるけれど、

 

指自体は、決して「究極の真理」そのものではない、っていう、あれですね。

 

「指が月をさすとき、愚者は指を見る」との箴言もよく聞きますが、

 

いやー、これね……ほんと耳が痛いです。

 

小出なんか、油断すると、すぐ言葉という名の指や地図にこだわって、

 

それ自体があらわそうとしているところを感じとるという作業を放棄してしまいます。

 

でも、それじゃあぜんぜん意味がないんですよね……。

 

 

 

たとえばとてもすぐれた地図を持っていたとしても、それだけを見て歩いていたら危ないし

 

(歩きスマホは大変危険な上に、ほかのお客様のご迷惑になりますのでご遠慮ください。)

 

逆に道に迷ってしまいますよね?

 

地図から一旦は目を離して、立体的な世界に向き合って、実際の道を確認して、

 

そこでようやく「こっちかな?」と、意味のある一歩を踏み出せるんです。

 

自信がなかったらまた地図を確認しても良いけれど、

 

やっぱり、一度は地図から目を離して、実際に歩き始めないことには、

 

いつまで経っても「現地」に辿り着くことはないでしょう。

 

 

 

「あの人がこう言っているから、きっとこれが正解」

 

とか、

 

「この本にはこう書いてあるから、きっとそれは正しいことなんだ」

 

とか、

 

「あの人はこう言っている、でもこの本にはこう書いてある。どっちが正解なんだ!」

 

とか、

 

ほんと、小出もやってしまいがちなところなんですけれど、

 

でも、自分の求める真実は、言葉の中ではなくて、目の前に広がる生(なま)の現実の中にこそあるのですよね。

 

 

 

地図や、方向指示器としての言葉は本当にありがたいものだけれど、

 

いつかはそれらから離れて、まっすぐにこの世界を見つめ、自分の足で歩き出す必要があります。

 

そして、そのチャンスは、いつだって「いま」にあるのだと思う。

 

 

 

がんばろうね~。