しあわせに帰還します。

2015年5月22日

自慢するわけではないのですが、私、ずーっとしあわせなんです。

 

そもそもしあわせを原料として形作られているのが私という存在なのだから、しあわせでないときがないんです。

 

これ、単に小出遥子が多幸体質(女性誌的な表現でいえば「幸せ上手」というやつ?)だとか、そういうお話じゃないですよ。

 

小出遥子だけのお話じゃないんです。

 

ほんとうは、みんな、生きとし生けるもの、いや、この地上に存在するものぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ! ひとつのこらず! しあわせそのものによって形成されているんです。

 

ただ、その事実に、「いま」「ここ」で気づいているかいないか、それだけなんです。

 

 

 

こんな言い方もできますね。

 

「人は決してしあわせにはなれない」

 

「そもそもしあわせであるのだから」

 

 

 

しあわせに「なる」のと、しあわせで「ある」のは、まったく趣が異なります。

 

「なる」タイプのしあわせは一時的なものです。持続しない。

 

もっと言えば、それ、ほんとうはしあわせなんかじゃないです。

 

単なる高揚感です。

 

いや、高揚感だってものすごく素敵なものではありますが、それとしあわせとは実はまったくの別物だということを知っておかないと、

 

いま、ここに「ある」、恒久的なほんとうのしあわせの存在に気づく機会を失い続けることになりかねません。

 

それは、やっぱり、ざんねんなことだなあ、と、私なんかは思うのです。

 

 

 

いま、ここに「ある」しあわせに気づいているとき、どんな感覚があるのか。

 

これはもしかしたら個人差があるのかもしれませんが、少なくとも私の場合はこうです、

 

というのを書いてみます。

 

 

 

おへその下のあたりに(丹田のあたり? 子宮があるあたり?)

 

なにやらぽかぽかとしたやわらかなかたまりのようなものがあって、

 

それを中心に、全身がじんわりとあたためられているのを感じる……

 

この感覚があると、大地と自分とが、完全につながって存在していることが、理屈抜きにわかるのです。

 

大地の上に乗っかっているという感覚ではなく、大地そのものの一部として、地面から生え出てきた感じ、というか……。

 

その状態で世界を眺め渡してみると、自分だけじゃなく、目に映るすべてが、ほんとうは大地とつながって存在していることが分かります。

 

そうなると、自分も、他人も、自然も、有機物も、無機物も、

 

まったくもって同じ「ひとつ」の「いのち」をもって、ただただ「いま」「ここ」に存在していることが分かります。

 

この、しみじみとした「ひとつ」の感覚を、私は、「しあわせ」と呼んでいます。

 

 

 

しあわせは、ほんとうは、いつだって「いま」「ここ」にあります。

 

一時的に見失っても、「いま」「ここ」に戻ることさえできれば、すぐにまた「しあわせ」そのものとして存在できるようになります。

 

私の場合、おへその下のあたりがぽかぽかしている、その感覚をフックに戻るようにしています。

 

身体はいつだって「いま」「ここ」にあるのだから、それを使わない手はありません。

 

どんなにイライラしていたり、メソメソしていたり、クヨクヨしていたりしても、

 

ちょっと立ち止まって、可能ならば椅子に腰かけて、呼吸を落ち着けて(「吐く」を意識した呼吸がおすすめです)、

 

ふっとおへその下あたりに意識を集中させれば……たいていは、大丈夫です。

 

「しあわせ」に、戻ってこられます。

 

この作業は、トレーニング次第で、いくらでも上達すると思います。

 

ポイントは、ただ「戻る」ことです。

 

どこかに「取りに行く」のではなく、ただただ、しあわせに「還っていく」のです。

 

ここさえ取り違えなければ、大丈夫です。

 

 

 

こういうのは、個人的な感覚なので、まあ、なんともことばにしづらいところではあるのですが……

 

とりあえず、今日のブログは、しあわせであるところから書きました。

 

(つまり、子宮ぽかぽか状態で書きました。笑)

 

なにか伝わるものがあればいいな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

しあわせでありますように。