なぐさめず、ただあれと、孤独と澱みに告げよう

2015年5月28日

祈りを、この場所に届くはずのない祈りを

光を、この場所に時にあるはずのない光を

 

なぐさめず、ただあれと 孤独と澱みに告げよう

涙とひきかえに手のひらでうける雫を

 

わたしたちは待っている ありふれた朝の続きを

生きることの美しさ、絶えることのない光を

 

わたしたちは待っている なんということもない春の日を

生きることの美しさ、絶えることのない光を

 

(蔡忠浩=詞 bonobos『グッドモーニング・マイ・ユニコーン』より)

 

 

 

 

 

なぐさめることだけが、やさしさじゃないよなあ……と最近しみじみ思っています。

 

やさしさがあるからこそ、相手の苦しみにダイレクトに手を伸ばすようなことはしない。

 

そんなことだってあるよなあ……と。

 

 

 

いや、もちろん、

 

「どうしても不安で苦しくて眠れなくてつらい。どうすればいい……?」

 

と真夜中に泣きながら電話をかけてきた相手には、

 

「つらいよね、心細いよね、私もそういうとき、あるよ」と共感しつつ、

 

「ぬるめのホットミルクに蜂蜜を入れて飲むと、少し落ち着くかもしれない」とか、

 

「カモミールティーがあったら、丁寧にいれて、一口ずつ、すするようにして飲んでみるといいよ」とか、

 

そういうアドバイスは、決して押しつけがましくならないよう、そっと伝えるようにしてます。

 

その瞬間、その子の眼前にある個別具体的な「問題」(この場合は眠れないこと)への対処法として、

 

自分が経験から得た知恵が役立ちそうなときは、惜しみなく差し出します。

 

そのぐらいの親切心は持っているし、持っていたいです。

 

 

 

でも、たとえば上記の場合で言えば、

 

「どうして眠れないのか?」

 

つまり、

 

「なぜ、眠れないほどの苦しみを受けているのか?」

 

という部分に関しては、

 

傍から見ていて、たとえ、どんなに手に取るように

 

「ああ、これがこうだから、あの子はいま、こういう風に苦しいんだな……」

 

ということが分かったとしても、

 

それをダイレクトに伝えるようなことはしちゃいけないし、

 

また、たとえば、その苦しんでいる相手が、

 

「あの人のせいで、私はいま、こんなに苦しいんだ!」

 

と決めつけて、その苦しみの原因とされた人物に対する不平不満をこぼし始めるようなことがあったとき、

 

「そっか、あなたはそう思うんだね」と、その部分でうなずくことはしても、

 

一緒になってその人物を糾弾するようなことは、ぜったいにしちゃいけないと思うのです。

 

それは、本当の意味でのやさしさにはならないと思うから。

 

 

 

苦しみの原因は、いつだって「自分」にあります。

 

出来事はいつだってニュートラル、それ自体に良いも悪いもないんです。

 

それを「自分」がどう見るか、どう受けとるか、

 

もっと言えば、「自分」というものの本質をどうとらえているのか、というところに、

 

「苦しみ」が生じたり、生じなかったりする縁があるのだと思う。

 

 

 

先日、苦しみの一番の解消法は「自分」を見つめること、といったような記事を書きましたが、

 

これ、本当に本当に本当で。

 

たとえば、一緒になって、誰かやなにかを糾弾して、外側に逃げ道を作ってあげることは簡単だけど、

 

でも、それじゃあ根本的な解決にはならないんですよね。

 

それをしてしまうことで、相手が自分自身の苦しみの本当の原因に気づく機会を奪ってしまうことだって、たくさんあると思うんです。

 

それは、結果的に、相手にとって「やさしくない」ですよね。

 

 

 

たとえば、よちよち歩きのこどもが、バタッと転んで、ウエ~ンと泣きはじめたとき。

 

駆け寄って抱き上げてあげたい気持ちをぐっとこらえて、

 

「大丈夫だよ。自分で起き上がれるよ。がんばれ。ここで見ていてあげるから。大丈夫。」

 

と、つかず離れずの距離から、愛を持って我が子を見守ってあげられるお母さんは素敵だなと思います。

 

だって、お母さんだって、自分のこどもが痛がって泣いているのを見るのはつらいし、苦しいはずなんです。

 

でも、自分が苦しいからと言って、即座に駆け寄って「よしよし」と抱き上げることを繰り返してしまったら、こどもは、いつまで経っても、自力で立ち上がる機会を逃し続けます。

 

自分にその力が備わっていることすら知らないまま、大人になってしまう可能性だってあるんです。

 

それは、やっぱり、悲しいことなんじゃないのかな……と思うのです。

 

 

 

もちろん、状況は千差万別だし、一概には言えません。

 

自分の苦しみも相手の苦しみも関係なく、とにかく駆け寄って、全力で抱きしめて、一緒に泣いてあげることが必要なときだってあるでしょう。

 

でも、冷静になって全体の状況を眺め渡す余裕のあるときは、

 

本当のやさしさってなんだろう、というところから、自分の行動を決めていくことも、

 

とても大切なことなんじゃないのかな……。

 

もちろん、ベースには、圧倒的な「愛」があることが必要ですけれどね。

 

 

 

なぐさめず、ただあれと 孤独と澱みに告げよう――

 

 

 

ただあれ、とこころの底から告げることができたとき、人は大きな気づきを得るのでしょう。

 

と同時に、「愛」ということばの意味を学ぶのでしょう。

 

本当の意味で、やさしくありたいな、と思います。

 

日日是修行、ですね。