柳は緑 花は紅

2015年5月29日

見るほどに みなそのままの姿かな 柳は緑 花は紅 (一休禅師)

 

 

 

 

 

道端に咲く花々を眺めるともなく眺めながらぼんやりと歩いているとき、ふっと、「境目」がなくなるような瞬間がやってきました。

 

「花を見ている私」と、「私に見られている花」との区別がつかなくなり、

 

そうこうしているうちに、

 

「私」も「花」も「空」も「地面」も「鳥」も「車」も「電柱」も「郵便ポスト」も「自動販売機」も……

 

すべての名前が、つまり、すべての区別がどこかへ消え飛んでしまって、

 

「ひとつらなりのいのち」として、ただただ「在る」――

 

「在る」だけが「在る」――

 

そんな世界があらわれたのです。

 

 

 

時間にしてみれば、ほんの数秒の出来事だったと思います。

 

気がついたら、私はまた、すべてに個別の名前の与えられた、慣れ親しんだ「分離」の世界に戻ってきていました。

 

 

 

それでも。

 

 

 

「ひとつ」の感覚だけは、まったく色あせることなくあるのです。

 

というか、「それ」は、ずっと、ずっと、「いま」、「ここ」にあるのです。

 

ただ、普段は忘れてしまっているだけで……

 

 

 

その感覚をもって、この世界をニュートラルに眺め渡したとき……

 

冒頭に挙げた歌の世界が、「すとん!」と落ちてきたのでした。

 

 

 

柳は緑 花は紅――

 

 

 

すべては、「そのまま」の姿をしていました。

 

まったくもって、「そのまま」の世界が、そこには展開されていたのでした。

 

 

 

しみじみと、よろこびに包まれました。

 

ひとつの「いのち」の、別々のあらわれとして、「いま」「ここ」で、まったくあたらしく出会えたよろこび。

 

元々「ひとつ」だからこそ感じられる、存在のど真ん中から湧き上がってくるような、じわじわ、ひたひたとした、

 

それていて鮮烈で、圧倒的で、根源的な、よろこび。

 

 

 

なんというか、ただただ、すべてに、ありがとう。

 

そのままの姿であってくれて、ありがとう。

 

 

 

「ひとつ」と「すべて」の狭間から、そんなことを思ったのでした。

 

 

 

あなたが、あなたで、ありがとう。

 

ただ、伝えたくなりました。

 

ありがとう。