「自由」について。

2015年6月5日

人は、結局、「自由」を求めているのだと思います。

 

究極的なゴールは、そこにしかないのだろうな、と。

 

 

 

この「自由」っていうのは、まあ、一般に言われるような、

 

「この支配からの……卒業」的な、「不自由」とセットとなった「自由」というようなものとは、まったく趣が異なっていて、

 

なんだろな、こう、

 

「ほんとうの自分」を感じながら生きていくこと、

 

というのが一番ニュアンスが近いのかな。

 

いや、この「ほんとう」っていうのも、また説明の難しいところではあるのですが……

 

まあ、あれですね、いつもの言い方で表せば、

 

個別の意識を持った存在(例:小出遥子)としての自分を超えたところに存在する、

 

ただただ「すべて」として「在る」「自分」というやつ。

 

これを「ほんとうの自分」として生きていくことが、

 

ほんとうの意味で「自由」を生きることになるのではないかな、と。

 

 

 

「ほんとうの自分」の正体を見抜くことができたら(それを仏教では「正見」と呼びますね)

 

人は、圧倒的な安心感に包まれます。

 

というか、そのときには、その安心感に包まれる対象としての「誰か」は消えていて、

 

ただただ安心感そのものとして、「いま」「ここ」に「在る」、という感じになるのですが……。

 

ただ、ずーっと「安心感」そのものとして生きていけるのか、といったらそうではなく、

 

やっぱり、人間は、個別の肉体、個別の意識を持った「誰か」として生きていくしかなくて、

 

まあ、簡単に言ってしまえば「人間」として生きていくしかなくて……。

 

でも、一度でも「ほんとうの自分」を知ることができたのなら、

 

その人の中には、どっしりとした「大丈夫」が根付きはじめている、ということは間違いがないんですね。

 

(定着の度合いは人それぞれだとしても、ね。)

 

 

 

「ほんとうの自由」は、この、絶対的な「大丈夫」がベースにあってこそ、味わえるものなんじゃないかな、と思うのです。

 

絶対的に「大丈夫」。

 

ほんとうはどこにも行っていないし、なにもしていない。

 

いつだって「いま」「ここ」に、いや、「いま」「ここ」が「在る」だけ。

 

だからこそ、どこにだって行けるし、なんだってできる。

 

……ふふふ、意味がわからないですね。笑 ごめんなさい。

 

でも、これこそが、「自由」であり、人が究極的に求めるところなんじゃないのかな、と、

 

そんなことを、ふと、思いましたので、書いてみました。

 

 

 

「自由」を、生きていきましょう。

 

私たちは、どこにも行けないし、なにもできません。

 

だからこそ、どこにだって行けるし、なんだってできるのです。