絶対死なないロッククライミング

2015年6月13日

「自分が思っていた“自分”なんか、どこにもいなかった!」

 

……という気づきを得たら、人生どんな風に変わるのですか?

 

と聞かれたら、

 

「正直、なんにも変りません。」

 

と答えるほかなく……。

 

 

 

そうなんです。はっきり言って、なんにも変らないんです。

 

政治の仕組みがわかるわけでもなく、日々の収入が劇的に増えるわけでもなく、

 

明日の天気を予知できるようになるわけでもなく、肩こりが改善されるわけでもなく、

 

全人類を無条件で愛せるようになるかと言ったら、残念ながらそれも違って、

 

やっぱりむかつく人はむかつくし、たまには派手にケンカをすることだってあります。

 

おだてられれば木に登るし、失敗したら落ち込みます。

 

生活だって、本当に、地味です。

 

朝起きて、働いて、お茶飲んで、また働いて、出掛けて、料理して、食べて、お風呂に入って、本を読んで、寝るだけ。

 

「気づき」前と、まったく変わりません。

 

 

 

ただ、そのベースに絶対的な安心感があるということだけは言えるかもしれません。

 

安心感があるからこそ、冒険を楽しめるようになる、というか……。

 

たとえるなら、命綱なしのロッククライミング。

 

ただし、落ちても、絶対に死なない、それどころかかすり傷ひとつ負わない、それがわかっているロッククライミングです。

 

だって、怪我をしたり、死んだりする「個人」がいないんだから。

 

するすると高いところに登って、吹き渡る風を肌で感じたり、陽射しを全身に受けたり、絶景を思いっきり楽しめたりする。

 

これはかなり自由ですよね。

 

 

 

いや、恐怖感から完全に解き放たれているわけではないんです。

 

時には「絶対に死なない」という事実を忘れてしまって、

 

「怖くて手も足も出ません!」「死にたくありません!」「助けてください!」

 

とか言って泣いたり、喚いたり、ぶるぶる震えたり、縮こまったりもするのですが、

 

(逆に言えば、「恐怖」という感情を味わう自由も与えられているということですが)

 

でも、しばらく経てば、

 

「あ、そうだった。落ちても死なないし、怪我をすることもないんだった!」

 

ということを思い出し、

 

全身の力を抜いて、また、するすると高いところまで登っていける、という感じかな。

 

いや、「もう飽きた! やーめた!」と言って、いきなり飛び降りてしまってもいいんです。笑

 

なにをしてもゆるされるんです。

 

登っても、降りても、いつだってその時、その場所での一期一会の景色を楽しめる、という感じ。

 

伝わりますでしょうか……。

 

 

 

「知らない」のと、「知っているけれど、一時的に忘れている」のとは違います。

 

一度得た気づきは、決して失われることはありません。

 

それは、安心感として根付いていくものです。

 

そして、安心感さえあれば、私たちは、どこにだっていけるし、なんだってできるのですよね。

 

 

 

でも。

 

でも! です。

 

ここからが重要なのですが、

 

ポイントは、

 

本人が自覚していようがそうでなかろうが、

 

私たちは、ひとり残らず、かならず、最初から、完全に、完璧に、救われている!

 

というところで。

 

これは、そうなんです。絶対に、そうなんです。

 

 

 

「落ちても死なないし、怪我ひとつしない」という真実に対する気づきがあろうがなかろうが、

 

その真実自体は、すべての存在の絶対的な本質として、どっしりとそこに横たわっているんです。

 

 

 

もちろん、気づいたあとの方が生きやすいことは確かです。

 

でも、もし、その気づきがなかったとしても、真実に変化はありません。

 

その真実を真実として受け取って、「それなら、好きに動いてみようかな……」と、

 

恐る恐るでも、自分のこころが求める場所に向けて、縮こまっていた手や足を伸ばすところに、

 

「信仰」というものが生まれていくのではないかな……。

 

そんなことを思います。

 

 

 

 

 

「気づき」があってもなくても大丈夫。

 

私たちは、絶対的に、救われています。