「毒出し」と「変化」のチャンス

2015年6月18日

「毒出し」ということばも、もうすっかり市民権を得たような感じの昨今ですが、

 

あらためて、これは本当に大切な視点だなあ、と。

 

 

 

肉体的な「毒出し」も、精神的な「毒出し」も、実は、どちらもとても「ありがたい」ものです。

 

ポイントは、「毒」が「毒」として認識されるという点にあります。

 

いや、「毒」とかいうと、どうしても「悪いもの」とか「敵」とかって思われてしまいますけれど、

 

実際、固定化された「自分」から見れば、「毒」は不都合なものに他ならないわけですが、

 

まあ、自分にとって「良い」ものであれ「悪い」ものであれ、

 

とにかくそれが表に出てきた、目に見えるかたちになった、ということ自体が、

 

まずはとても素晴らしいことなのだと思います。

 

なぜなら、「出た」「見えた」瞬間に、「どうにかしよう」という意識も働きはじめるから。

 

 

 

見えていなかったら手立てを打つことさえできないわけです。

 

結果としてうまくいこうがうまくいかまいが、なにかしらの行動を起こせるというのは、

 

もうそれだけで「救い」ですね。

 

人間、どんな状況に一番ストレスを感じるのか、というと、

 

「原因がわからない」だから、「手も足も出ない」

 

結果、「自分は無力だ……」と落ち込んでしまうときなんじゃないかな、と思うから。

 

 

 

「毒」が出た! じゃあどうする?

 

この「じゃあどうする?」が、そのまま解決への第一歩になるのだと思う。

 

「出た!」瞬間は「ぎゃあ! どうしよう!」と慌ててしまうけれど、

 

長い目で見れば、それは実は歓迎するべきことだったりして。

 

拍手で迎えるようなことはできないにしても(笑)

 

でも、決してそれはイコールで「絶望」ではない。

 

落ちついて見てみれば、そこにはかならず「希望」が見つかるはずなんです。

 

「変化への可能性」という名の「希望」が。

 

それはもう、絶対、です。

 

そういう意味で、「毒」が出てくることは、「ありがたい」のです。

 

 

 

で、実際に「変化」を起こそう、と動き始めるときに大事なのは、

 

「毒」の方をどうにかしようとしないこと、ですね。

 

私たちは、どうしても、「毒」の方に不都合な状況の原因を見出してしまいがちで、

 

「そちら」をぐちゃぐちゃといじくり回すことによって、「どうにか」しようとしてしまうのですが、

 

実はこれはまったく的外れなやり方で。

 

「どうにか」しなきゃいけないのは、実は、「毒」を「毒」としてしまう「自分自身」だったりするんですよね……。

 

「どうにかする」その対象を見誤ってしまうと、せっかくの変化のチャンスをふいにしてしまうことになる。

 

 

 

世の中には、「絶対的に良いもの」も、「絶対的に悪いもの」もありません。

 

実は、すべてがニュートラル。それ自体に「意味」を持つものはひとつもありません。

 

「良い」「悪い」は、すべて、個人の思考の産物です。

 

たとえるなら、すべてはスクリーンみたいなもので。

 

ものでも人でも、自分の外側にあるものはすべて、なんの色付けもされていない、真っ白なスクリーンで、

 

私たちは、そこに自分勝手な「良い」「悪い」「好き」「嫌い」などなど、様々な「意味」にまみれたフィルムを映写しているだけ、なんですね。

 

スクリーン自体をどうにかしようとしても仕方ない。どうにもならないんです。

 

「どうにかする」べき対象は、いつだって「こちら側」にあるんです。

 

 

 

で。その「こちら側」を「どうにかする」、その仕方ですが、

 

これも、私たちはどうしても勘違いしがちなのですが、

 

たとえば、

 

「意味」にまみれたフィルムをスクリーンに映写しているのは自分自身。

 

じゃあ、「悪い意味」を持つフィルムじゃなくて、「良い意味」を持つフィルムに交換すればいいんじゃない!?

 

……って思っちゃいますよね。

 

でも、そういう対処法じゃ、一時しのぎにはなっても、長い目で見れば、結局、「解決」にはならないんですね。

 

よくある「ポジティブシンキングのススメ」とかは、この系統に属するものだと思います。

 

いや、こういうのって、とにかく手っ取り早いし、優れた点だっていっぱいあるやり方なのだろうな、とは想像するのですが、

 

でも、やっぱり、サステナブルじゃないなあ、と。

 

なんにせよ、大元を見ないことには、根本的な変化は起こってこないんじゃないかな、と。

 

 

 

そう、大事なのは、大元、「意味にまみれた映像の映写機としての自分」を認識することなんです。

 

「良い」も「悪い」もなく、

 

「あ、私、今日もまた意味にまみれた映像を映しているなあ~」と、

 

ただそれだけを、まずは認識し続ける。

 

それをしている自分を「どうにか」しようとも思わず、ただ認識し続ける。

 

ただただ、「認識」だけをひたすらに続けていると……

 

あるとき、映像を映している「自分」、「私」っていうのが消え去る瞬間が訪れるんですね。

 

「自分」が消えると、「意味」も消えます。

 

すると、そこには、「意味」を除いた「映像」だけが残ります。

 

そこに、人生最大の「変化」が起こってくるんです。

 

私が(勝手に)師と仰ぐあるお坊さんは、この境地を

 

「私“からの”自由」

 

と呼んでいらっしゃいました。

 

まさに……! ですね。

 

 

 

……「毒出し」の話からやけに飛躍しましたね。笑 ごめんなさい。

 

でも、今日書いたのはかなり重要なことだと思うので、

 

なにかのヒントにしていただけたらうれしいです。