いのちはさっぱりわからない

2016年10月11日

おはようございます。小出遥子です。

昨日のBlogで、

「私は、いのちについて、なにも知りません」
「ほんとうに、さっぱりわかりません」
「だから先生って呼ばないでね☆」

……みたいなことを書いたのですが、
いやあ、こんなことを言えて(書けて)しまったこと、
それ自体に、私は、地味に感動してしまいました。

「知りません」「わかりません」
と言い切ってしまえることの清々しさ。
ちょっと前の私に教えてあげたい!(笑)

いや、ほんとうです。
私、随分長い間、「勘違い」に苦しめられていたんです。

その「勘違い」っていうのは、
「私はいのちの実相を知ってしまった」
というもの……。

……恥ずかしいったらありゃしない!!!(笑)

そりゃあね、私も、私なりにいろいろ勉強してきたし、
本もたくさん読んだし、お坊さんや学者さんの話もたくさん聞いたし、
瞑想や呼吸法などの「行」にも随分熱心に取り組んだし、
念仏は日常的にとなえているし、
まあ、ある種の「宗教体験」「神秘体験」みたいなことをしたこともあったし、
日々、大小さまざまな「気づき」もあるし……

だけど、「それがどうした?」っていう話だったんですよ。

いや、もちろん、それぞれのひとつひとつは
ほんとうに大切なものですし、ある意味、私の生涯の宝です。

でも、ざんねんながら、それがそのまま、
「いのち」のなんたるかを知った! わかった!
……ということにはならないんですね。

「いのち」に触れるとき、
つまり、
「いのち」が「私」を生きていることを全身全霊で感じるとき、
そこに「知識」や「経験」はまったく必要なくて。
「わかろう」とする意志すら必要なくて。

もし、なにかが必要とされるのならば、
目の前で起きていること(そして起きていないこと)を
虚心坦懐に、ありのままに見つめる態度。
ほんとうに、ただそれだけ、なんですよね。

そして、そういった態度で「世界」を眺め渡してみたら……

やっぱり、いのちのことは、さっぱりわからない!

……という結論にしか辿り着かなくて。

いのちは、いのちであって、それ以上でも以下でもなくて。
そこには「理解する」主体はいないし、「理解される」対象もない。
だから、やっぱり、いのちのことは、さっぱりわからない! んです。

でも、その「わからなさ」には、一切の不快感がともなっていないんですよね。
むしろ、あっけらかんと、潔く、「わからないよね」と言える。

これはね、すごく、ありがたいことだなあ、って。

私がTempleというプロジェクトでやろうとしているのは、
「いのち」のなんたるかを探っていくことではなくて、
「いのち」のわからなさを、ただただ共有し合うことなのかもしれません。

そこでしか、個体と個体が「わかり合う」ことはないのかもしれない。

なんとなく、そんなことを思っています。

 

お読みくださってありがとうございました。

よい一日をお過ごしください◎