選べる? 選べない?

2015年6月28日

「個別の私」を超えたところに「在る」、「ほんとうのわたし」の世界には、時間という概念がありません。

 

だから因果関係なんてものも生じようがないのです。

 

「過去に○○をしたから、いま、こんなことになっている」とか、

 

「いま○○をしておけば、未来は安心だろう」とか、

 

そういうロジックって、ぜんぶ、「時間」というものを前提として成り立っていますよね?

 

でも、「ほんとうのわたし」の世界には、「いま」しかないから、そういうお話がそもそも出てこないんですね。

 

 

 

そうは言っても、通常、私たちは「個別の私」(例:小出遥子)を生きているわけで、

 

こちらの世界には、もちろん、時間という概念が存在するわけです。

 

つまり、「過去に○○をしたから、いま、こんなことになっている」とか、

 

「いま○○をしておけば、未来は安心だろう」とか、

 

そういうお話が、ここではばっちり成り立ってしまうんです。

 

いや、ものすごく正確に言えば、「成り立っているように見える」ということになるのですが、

 

その物語を生きている個人にとっては、それ以外を想定することがそもそもできないから、

 

結局、それは、その「個別の私」たる「本人」にとっては、「まったき現実」ということになる。

 

 

 

それと同じことが「選択の自由」にも言えるんですね。

 

「ほんとうのわたし」の世界には、「選択の自由」がありません。

 

そもそも、なにかを「選択」する主体である、「個別の私」がいないのだから、

 

そんなものが存在できようはずがないのです。

 

「ほんとうのわたし」の世界では、「すべては決まっている」のです。

 

 

 

でも、「個別の私」の世界では、「私」は、なにかを「選択する」ということが可能になってきます。

 

そこには「私」も「時間」もあるからです。

 

そこでは、「すべて私の選択次第!」ということになります。

 

くどいですが、ここでも、ものすごく正確に言わせてもらえれば、

 

「選択できるように見える」ということになるのですが、

 

その物語を生きている個人にとっては、それ以外を想定することがそもそもできないから、

 

結局、それは、その「個別の私」たる「本人」にとっては、「まったき現実」ということになるんですね。

 

 

 

いや、どちらが正しいとか間違っているとか、そういう話じゃないんです。

 

ただ、「ほんとうのわたし」と「個別の私」とでは、見える世界がまったく違うんだよ、

 

っていうお話です。

 

ここでのポイントは、「まったく同じ素材でできた世界」でも、

 

それをどこから「見る」のかによって、まったく違ったものが立ち現れてくる、というところですよね。

 

素材自体に変化はないっていうのが、ものすごく面白いところなのですが、

 

まあ、それについては今度くわしく……。

 

 

 

小出が、「私たちはなにも選べません!」と言った、その舌の根も乾かないうちに、

 

「ぜんぶ自分次第なんです!」なんてことを言っている……

 

そういうことって、いままでに何回もあったと思うのですが、その理由はそこにあるんですね。

 

「ほんとうのわたし」と「個別の私」、どちら寄りからことばを発しているのか、

 

それによって、まったく逆の表現がそこには出てきてしまう、

 

そういうことが起きてくるんです。

 

 

 

ことばだけを見ると混乱してしまうと思います。

 

全体の雰囲気から、どちら側からのことばなのかをセンスしつつ、受け取っていただければ……

 

そんなことを思います。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

今朝の東京はとってもいい天気です!

 

空の青がうつくしい。。。

 

よい日曜日をお過ごしください。