うつくしいひとつのいのち

2015年6月30日

昨日出会った、ある男性が、こんなことを言っていました。

 

「目の前にいる誰かと向き合っていて、ふと、泣きたくなるようなときがあるんですよ。

 

人って、なんて完璧なんだろうって。なんてうつくしく、完璧に作られているんだろうって」

 

そのことばを聞いて、なんだか涙が出そうになりました。

 

彼の気持ちが、一分の隙もなく、「わかった」ような気がしたからです。

 

ちょうどそのとき、近くに座っていたまた別の男性(その方はお坊さんでした)が、ふいにこんなことをつぶやいたのです。

 

「いま、いのちがあなたを生きている、っていうことかな」

 

びっくりしました。

 

私も、その瞬間、まったく同じことばを思い浮かべていたのです。

 

なんというか、その時、その場で起こったすべてが、「奇妙な符合」などということばではくくれないほど、

 

とにかく「完全」に、「完璧」なタイミングで、

 

それこそ一枚絵のように、すべてがあるべき場所に、「完全」に、「完璧」に、

 

ぴたぴたぴたっとおさまった瞬間を見た……

 

というか、元々すべては、「完全」に「完璧」なのであり、

 

ただ、それに気づくか、気づかないか、

 

ほんとうに、ただ、それだけなのだろうな……と。

 

「ひとつ」を、強く感じた瞬間でした。

 

 

 

ここは、うつくしさであふれています。

 

というか、うつくしさ以外、存在しない。

 

うつくしい瞳、うつくしい声。

 

うつくしい映像、うつくしい音楽、うつくしい風景。

 

うつくしい光、うつくしい影。

 

うつくしいあなた。

 

うつくしいわたし。

 

「いま」「ここ」に「ある」すべては、

 

ただ、あるがままで、「完全」に、「完璧」に、うつくしい。

 

 

 

その「うつくしさ」に気づけるのは、きっと、

 

それらすべてと、私とが、もともと「まったく同じ」「ひとつのいのち」であるからなのだと思います。

 

「まったく同じ」「ひとつのいのち」が、それそのものとして、私たちを、存在の本質から、揺さぶってくるのでしょう。

 

 

 

でも、「うつくしいひとつのいのち」は「うつくしいひとつのいのち」のままでは、

 

その「うつくしいひとつのいのち」である自らを、感覚することができないんです。

 

だからこそ、私たちは、一度、

 

「私」と「私以外」

 

そんな風に、世界を「ばらばら」にしてしまう必要があったのではないかな。

 

すべて、「いま」「ここ」に「ある」、「いのち」そのものの「うつくしさ」を知るために。

 

ただ、それだけのために、私たちは……

 

 

 

いま、いのちがあなたを生きている

 

いま、いのちが私を生きている

 

 

 

その「いのち」は、「ひとつ」です。

 

その「ひとつ」は、「ひとつ」であるからこそ、

 

とてつもなく、「うつくしい」です。

 

 

 

 

 

うつくしい一日を。