「かたよらない」の意味

2016年10月13日

おはようございます。小出遥子です。

「中道」っていうことばがありますよね。
仏教的な意味は

二つの極端(二辺)すなわち有・無、断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。また、快楽主義と苦行主義の両極端を離れること。

(広辞苑第六版より)

ということですけれど、
これ、ほんとうに、大変誤解されやすいことばなんですよね。

両極端を離れるっていうと、人間ってすぐ
「じゃあど真ん中を選べばいいんでしょ」
って思っちゃうんですよ。

少なくとも私はそう思っていました。

「白も黒もだめならグレーを選べばいいじゃない」
「0も100もだめなら50を選べばいいじゃない」
……みたいな感じ。
平均台の上を、そろり、そろり、と注意深く歩いているイメージ。

でも、ここで言っているのは、そんな単純な話じゃなくて。

広辞苑にも
「対立した世界観を超越した正しい宗教的立場」
って書いてありますけれど、
ここでのポイントは「超越」にあるんですよね。

「超越」っていうのは、
「ふたつの対立する概念をすっかり抱き含めて、
その存在を認め切ってしまう」ということです。
私は、そう思っています。

「認め切る」となにが起こるのか。
自分の中から「対立」が消えるんです。

「対立」って、そもそも、人間のあたまの中にしかないんですよ。
人間のあたまの中以外、
世界中のどこを探したって、そんなものは見つからない。
客観的にその実在を確認できるものとして、それは存在していないんです。

善も悪も、闇も光も、すべては、あるようにある。以上!

……その事実を、混じりっ気のない事実として、全身全霊で感じられたとき、
「対立」という概念自体が、とけて消えてなくなってしまいます。

そうなれば、あとはもう、
その時々のご縁にしたがって生きていくだけですね。

本人の中に「対立」があるかどうか、という点で言えば、
病気で余命宣告を受けた人の中にも、ほんとうの意味で「健康」な人はいる。

本人の中に「対立」がなければ、
たとえば、政治的に左寄りな思想を持とうが、右寄りな思想を持とうが、
その人は「中道」を歩んでいるし、つまりはまっとうな「仏道」を歩んでいる。
そう言っていいんじゃないかな、と思うんです。

まあ、わざわざ政治思想の例を持ち出すまでもなく、
こういうことって、実はたくさんあるんじゃないかなあ。

「かたよらない」ということばの意味を、
いま一度、考え直してみても面白いかもしれませんね。

 

よい一日をお過ごしください◎