「信仰」なんか要りません。

2015年8月2日

私は“仏教ファン”だし、

 

このブログでも仏教のことばを使ってなにかを説明することが多いし、

 

あと、仏教に限らず、「スピリチュアル系」とくくられるような

 

ジャンルで使われるようなことばも用いるし、

 

でも、そうかと言って、じゃあ、なにかを「信仰」しているのか、と聞かれたら、

 

それは、はっきり言って、「ぜんぜん違う!」んですね。

 

 

 

なにが違うのか、と聞かれたら……

 

まあ、ひとことで言い表すのだとしたら、

 

「距離がない」

 

のですね。

 

なにとなにとの間に?

 

それらの「教え」と、「自分」との間に、です。

 

 

 

いや、ほんと、不遜なことを言っていることは重々承知の上ですが……

 

でもね。

 

たまに、

 

「あなたは熱心な信仰者だから……」

 

といったようなことを言われると、

 

やっぱり、どうしても、

 

「それは違うんです~~~!」

 

と、暴れまわりたくなってしまうんですよ……。

 

暴れないですけど。大人だし。笑

 

 

 

前も書いたと思うのですが、

 

私の場合、「教えありき」なわけじゃないんですよ。

 

仏の教えでも、スピリチュアルな教えでも、

 

それをまずどこかで聞いたり読んだりして知識として得て、

 

で、「ふむふむ、なるほど、こういう考え方があるのか」と言って、

 

自分自身をそちらに沿わせていく……

 

っていう、

 

まあ、これが一般に言う「信仰」っていうことばの指す態度だと思うのですが、

 

こういうやり方は、私は、取っていないんです。

 

 

 

私の場合、はじめに「自分ありき」なんです。

 

自分の内側に、もう、どうしようもなく、「真実」としか呼べないものがあって、

 

いや、それは、ほんとうには、「内側」も「外側」もなくて、

 

ただただ「自分」の「本質」としか言いようのないもので、

 

まあ、つまりは「ほんとうの自分」っていうことなんですけれど、

 

その、知識以前、ことば以前に、

 

「どうしようもなく知っている」

 

「どうしようもなく“それ”としてある」

 

その“自覚”からかもし出される熱さが、

 

私を、仏教をはじめとする、さまざまな「教え」へと導いていくのです。

 

 

 

だから、私の場合、「教え」は外側から与えられるもの、なんかではなくて、

 

「自分」そのものからにじみ出るもの、

 

そうとしか言えないもの、なんです。

 

 

 

「ほんとうの自分」を指し示すようなことばが

 

“たまたま”仏教や、その他のなんらかの教えの中から見つかった。

 

だから、そのことばを使わせていただいている、

 

という感じなんですね。

 

 

 

謙虚じゃない、ですか?

 

でも、ごめんなさい、私は、こういう関わり方しかできない。

 

自分の中にないものを「信仰」することなんか、ぜったいにできないんです。

 

 

 

私が興味があるのは、本当に、「自分」のことだけなんです。

 

いや、「ほんとうの自分」のことだけなんです。

 

それを、ただただ、知りたいんです。

 

知識としてだけでなく、「それ」そのものとして、まるごと、知りたいんです。

 

それだけのために生きていると言ってもいいぐらい。

 

そのぐらい、真剣なんです。

 

 

 

決して盲目的になにかを「信仰」しているわけじゃない。

 

目を開いて「自分」を見つめ、

 

その上で、できるだけ謙虚に、「教え」のことばをいただいています。

 

 

 

すみません、ちょっと過激なことを書いてしまいました。

 

でも、「ここ」にあるものに、できるだけ正直に、書いてみました。

 

 

 

 

 

今日も暑いですね。

 

よい日曜日を。