「死」=「世界から自分が退場すること」ってほんとう?

2016年10月15日

おはようございます。小出遥子です。

世の中には「死」について書かれた本がいっぱいありますよね。
「死とはなにか?」「死ぬとはどういうことか?」みたいなやつ。

それだけ人類は「死」に高い関心を寄せている、というか、
「死」は、見て見ぬフリができない、どうしようもない問題として
人類が向き合い続けているものの代表なのでしょう。

私もその類の本は何冊が持っていて、
昨日もお風呂の中でその中の一冊を読んでいたのですが、
ふと、
どうして、「死」=「世界から自分が退場すること」
という前提の中で話が進んでいるんだろう? と。
その前提自体を疑ったところから
論を進めている本が読みたいなあ、と。
そんなことを思いまして。

「死」=「世界から自分が退場すること」って、
みんな当たり前のように思っているみたいですけれど、
これってほんとうなんですかね?

いや、客観的に見たらそうですよ。
実際、数年前に死んだ私のおばあちゃんは、
この世界から、いなくなってしまいました。
もう、彼女に会うことはかないません。

でも、これって、あくまで他人目線の「死」の体験ですよね。

本人の「死」は、本人にしか体験できないけれど、
それを体験するべき本人の肉体は、
「死」の瞬間にはすでに活動を停止しているので、
実質、その「死」を“体”験する人は誰もいないという……。

だから、誰も「死」の正体を掴めなくて、
だからこそ、「死とはなにか?」という議論が
古来から活発に交わされてきたのでしょう。

そう、「死」について、生きている人間は、
ほんとうは、誰も、なにも知らないんです。
わかるはずがないんです、「死」のことなんか。

そこから話をはじめないと、
いつまで経っても思い込みの枠の中から抜け出せないですよね。

ということで、ひとつ提案。

「死」=「世界から自分が退場すること」
という思い込みを一旦横に置いておいて、
「死」=「自分から世界が退場すること」
という風にとらえ直してみたら、なにが起こりますかね?

正解とか不正解とかはどうだっていいんです。
ただ、一度、そういう風に「死」を考えてみるのも、
また、たのしい……とまではいかなくても、
なかなか、新鮮な気分が味わえるかもしれません。

そして、その「新鮮な気分」が、
「新鮮な気づき」を運んでくることも、あるかもしれません。

もしかしたら、そのときには、すでに、
「自分」ということばの意味さえ、変わっているかもしれませんね。

もっと自由に、「死」を、ひいては「生」を、とらえなおしてみませんか。
そっちの方が、よろこぶ気がするんです。いのちが。

 

冬の予感が空気中に満ちている東京の朝です。

よい一日をお過ごしください◎