平和のはじめかた

2015年8月6日

いま、ここの、この目の前にあるすべてが、

 

このままで、もう、完全にこのままで、

 

すでに、完璧なんです。

 

 

 

……なんてことを言っても、にわかには信じられないですよね。

 

当然です。

 

だって、上記のようなことは、この、個としての“私”には、

 

決して理解できるはずがないものだから。

 

 

 

そもそも、世界を完璧じゃないものにしているのは、この“私”なんです。

 

この“私”から眺める世界は、いつだってなにかが欠如しています。

 

 

 

これもまた当然なお話で。

 

そもそも、この“私”の成り立ちからして不自然なんです。

 

 

 

ほんとうは、すべては「ひとつ」なんです。

 

いや、「ひとつ」というのも、ほんとうはまったく正確でなくて、

 

それは、そのまま、「すべて」で、

 

でも、「すべて」でありながら、そこには、ひとつの「分離」もなくて、

 

 

 

「ひとつ」で「すべて」

 

「すべて」で「ひとつ」

 

 

 

そういった在り方で、ただただ「それ」として「在る」。

 

それが、「ほんとう」の“わたし”の在り方なんですね。

 

 

 

でも、この“私”は、普段は、そのことをすっかり忘れたまま、

 

つまり、

 

 

 

「ひとつ」で「すべて」の“わたし”

 

「すべて」で「ひとつ」の“わたし”

 

 

 

この、「ほんとう」の“わたし”を忘れて、

 

個としての“私”こそを、唯一の“私”であると勘違いして、

 

押しつぶされそうなほどの分離感を

 

両手いっぱいに携えた状態のままに生きてしまっている。

 

 

 

この“私”の「勘違い」(“私”という名の「勘違い」)こそが、

 

見える世界を完璧ではないものにしてしまっているんです。

 

世界そのものが「完璧じゃない」わけじゃなくて、

 

それを見る“私”が、世界を「完璧じゃない」ものにしてしまっているんです。

 

 

 

それならば、どうしたらいいのか。

 

世界を「完璧」なものにするにはどうしたらいいのか。

 

 

 

答えは簡単です。

 

“私”を超えて、“わたし”を、思い出すだけ。

 

それだけ。

 

 

 

ひとりひとりが、

 

“私”という名の「夢」から目覚め、

 

「ほんとう」の“わたし”に目覚めていくだけ。

 

ただ、それだけです。

 

 

 

目覚めるのは、難しいことじゃないです。

 

だって、ほんとうは、みんな、そもそも「それ」だったのだから。

 

 

 

まったくあたらしいなにかに「なる」わけじゃない。

 

もともとそれであったことを「思い出し」、

 

そこに「還っていく」だけでいいのだから。

 

 

 

力を抜いて、「いま」「ここ」にあるものと、

 

ただ、共にあってみてください。

 

なにかを思い出しかけていることに気づいたら、

 

それを自分に許可してあげてください。

 

 

 

「平和」は、そこからはじまっていくのだと思います。