「受けいれる」とか「手放す」とか。

2015年8月7日

「受けいれなさい」

 

とか、

 

「手放しなさい」

 

とか、

 

こういうの、いろんなところで聞きますよね。

 

でも、ほんとうの意味で、これらのことばを受け取るのって、

 

結構むずかしいよな~、と思います。

 

 

 

たとえば……そうだな。

 

動物園から猛獣が脱走したとしますよね?

 

で、街で偶然、その猛獣に出くわして、目が合ってしまった、

 

そんなことがあったとします。

 

そのとき、自らの身の内に、ものすごい恐怖が湧いて、

 

「やばい! 恐い! 逃げたい!」と、心の底から思っているのにもかかわらず、

 

そして、状況的にはまだまだ十分に逃げられる可能性が残っているにもかかわらず、

 

「いや、でも、これも運命なのだから、すべて受けいれなくては……」

 

「恐ろしい、と思う気持ちを手放さなくては……」

 

「あの猛獣も幻想だし、この恐怖感も幻想なのだから……」

 

「“悟った”人は、こんなときでも動じないはず……」

 

などという観念にとらわれて、

 

まったく逃げずにその場にとどまって、

 

結果、猛獣に襲われて、命を落としてしまったとしたら……

 

はっきり言って、その人は「おばかさん!」ですよね?

 

でも、これに似たようなことって、実際には割とよく起こっている気がするんです。

 

 

 

私たちが「受けいれる」べき対象は、

 

「いまここ」に、ごくごく“自然”に生起するもの、すべてです。

 

 

 

だから、「いまここ」において、

 

「恐い!」とか、「逃げなきゃ!」とか、そういう思いが湧いてきたとしたら、

 

その場ではそれに従うのが正解です。

 

ごくごく自然に湧いてきた恐怖心や逃走本能に「良い」も「悪い」もなくて、

 

それはただただ「受けいれる」べきものなんです。

 

 

 

「手放す」べき対象は、

 

ごくごく自然に湧いてきた思い、そのものではなくて、

 

それを受けいれることに対する自分の中の抵抗です。

 

 

 

上記の例で言えば、

 

本来だったら、「恐い!」とか「逃げたい!」とかが最優先されるべき感情なのに、

 

でも、「そんなことを思っちゃいけない」という“不自然”な観念が、

 

「恐い!」とか「逃げたい!」とかの、ごく“自然”な思いを受けいれることに対して抵抗を見せ、

 

結果、誰も(本人も)望まない事態が起こってしまったわけです。

 

これは悲劇以外のなにものでもありません。

 

 

 

「受けいれる」べきなのは、「いまここ」に、ごくごく“自然”に生起したもの。

 

(例:「恐い!」「逃げたい!」)

 

「手放す」べきなのは、「いまここ」から離れたところにある、“不自然”な観念。

 

(例:「恐ろしい、と思う気持ちを手放さなくては……」「あの猛獣も幻想だし、この恐怖感も幻想なのだから……」)

 

こういうことになるでしょうか。

 

 

 

“自然”なものを受けいれて、“不自然”なものを手放す。

 

そうして、ただただ「いまここ」にある。

 

それが、「自由」ということだと思うんです。

 

 

 

「いまここ」を、「自由」を、生きていきましょう。

 

誰にも遠慮はいらないよ。

 

 

 

 

お盆休み前の最後の平日ですね。

 

よい一日をお過ごしください。