「自然」とか「不自然」とか。

2015年8月8日

僕らが行っている自然栽培というのは、自然に基づいた自然農法なのね。でも、ほかの自然農法と差別化するために、「自然栽培」という名前にしたの。これこそ自然と調和し本来の自然の力を引き出す、純粋な自然農法なんだよ。

 

ほかの農法と違う点は、まず自然観の捉えかた。一般的な自然農法は、自然を「水平に」見た。水平に見ると、山野だけが自然に見える。それ以外の田畑は人口のものに見えてしまう。でも我々はそれとは違う視点で、「上から」自然を見た。そうしたら自然には、川も、道路も、人も、虫も存在していた。そのすべてが自然だと認識したんだ。

 

(エムエム・ブックス『マーマーマガジン』20号 自然栽培全国普及会・会長 高橋博さんインタビュー「自然栽培が教えてくれた『自然』のすべて より抜粋)

 

 

 

 

 

昨日の記事で、

 

「受けいれる」べきなのは、「いまここ」に、ごくごく“自然”に生起したもの。

 

「手放す」べきなのは、「いまここ」から離れたところにある、“不自然”な観念。

 

その先に、「自由」があります。

 

……みたいなことを書いたのですが、

 

まあ、これ、ある意味では「ほんとう」であって、

 

決して間違っているわけではないのですが、

 

(だから書いたわけですが、)

 

でも、これだけだと実は不十分だったりするんですね。

 

 

 

だって、言ってしまえば、

 

ほんとうに、究極なところから言ってしまえば、

 

この世に「不自然」なものなんて、ひとつもない!!!

 

わけで……。

 

 

 

「いま・ここ」に、

 

ありとあらゆるものが、

 

生じては滅し、滅しては生じる……

 

そのダイナミズム、それ自体が、

 

「ほんとうのいのち」

 

つまり

 

「ほんとうのわたし」

 

であるならば、

 

それ全体が「自然」そのものなのであり、

 

「不自然」なものなど、そこにはどうしたって生まれようがないのですよね。

 

 

 

「自然」だ、「不自然」だ、と騒いでいるのは、

 

個としての「私」だけであって、

 

すべてとしての「ほんとうのわたし」には、

 

そもそも「分離」という概念がないので、

 

そこにジャッジメントも発生せず、

 

だからこそ、

 

文字通り、「あるがまま」で、完全に完璧! なものとして在るだけ、というか。

 

 

 

ほんとうは、どこまで行っても「いま・ここ」の手のひらの上。

 

だから、究極的には「ぜんぶOK!」「ぜんぶ大丈夫!」なわけです。

 

 

 

個としての「私」にとって、

 

「自然」な行動を選ぼうが、

 

「不自然」な行動を避けようが、

 

その逆をやってしまおうが、

 

結果として、痛い目見ようが、

 

命を落とそうが、

 

「ほんとうのわたし」にとっては、

 

「ぜんぶOK!」「ぜんぶ大丈夫!」

 

だったりする……。

 

 

 

だって、ひとつとして、「いま・ここ」からは離れて存在しているものなんてないんだもの。

 

 

 

ほんとうは、なにひとつ間違ってなんかいない。

 

ぜんぶ、そのままで、あるがままで、大丈夫。

 

だから、安心していていいんです。

 

 

 

……でも、こんなのは、はっきり言って究極的すぎて、

 

個としての「私」には到底理解できるようなメッセージではないので、

 

(だって、死んじゃったら元も子もないでしょ!!!)

 

昨日は、どちらかと言えば、個としての「私」に寄ったところから、

 

「自由」というものの在り方について書いてみたわけですが……。

 

 

 

でも、相当に「究極的」であるとはいえ、

 

「ほんとうのわたし」の在り方を、

 

まずは知識としてだけでも「知って」おくことは、

 

個としての「私」に、あたらしい風を運んでくることもあるかもしれない……

 

なんてことを思ったので、

 

今日は、昨日とは違った視点(水平に対する垂直視点というか)から、

 

こんなことを書いてみました。

 

 

 

 

 

今日から夏休みに入られた方も多いのかな。

 

よい夏の日をお過ごしくださいね。