「ゆるされている」ということ。

2015年8月10日

昨日の昼、めずらしくテレビをつけて、

 

ぼんやりと高校野球の様子を見ていたのですが……

 

そのとき、なんか、ふいに思ったんですね。

 

この子たち、みんな「しあわせ」だなあ、って。

 

 

 

いや、ほんと「どこから目線だ!?」って話なんですが、

 

でもね、なんか、しみじみと実感してしまったんです。

 

勝って笑っているチームも、負けて泣いているチームも、

 

まったく同じ「しあわせ」の中にいるなあ、って。

 

で、そんなことを思ってしみじみとしている私も、

 

彼らとまったく同じ、無条件の「しあわせ」の中で生きていたりして……。

 

いや、「しあわせ」の中に、生かされている、が正確かな……。

 

 

 

高校野球を観ていると、

 

「ええ!? うっそ~!?」

 

って思うようなこと、たくさん起こるんです。

 

「これはファウルでしょ~」

 

と思ったボールが、白線上のでっぱりに当たって内側に戻ってきてしまったり、

 

ぜったいにキャッチできるはずのボールが、外野手のグローブをすり抜けていったり……。

 

「甲子園には魔物がすんでいる」とかよく聞きますけれど、

 

両チームの実力うんぬんを超えたところにある「なにか」が、

 

ゲームを手のひらの上で転がしているとしか思えない瞬間があるんですよね。

 

いや、こういうこと言うと、どうしても人格的な「なにか」を想像してしまいますが、

 

そうではなくて、なんというか、

 

「そうでなくてはならない」「それ以外には起こり得ない」

 

そんな流れというか……やっぱり、「縁」かな。

 

ぜんぶ、「縁」によって起こっているのだなあ……と。

 

 

 

当然ですが、これ、なにも、甲子園に限った話じゃなくて、

 

ほんとうに、すべては、「縁」によって起こってきているんですよね。

 

 

 

「縁」の網目から逃れられる存在なんかなくて、

 

すべては、「縁」によって、

 

一瞬ごとにあらわれては消えていき、またあらわれて……を繰り返していて。

 

ただ、それだけで。

 

「自分」は、ただただ、それとしてあることしかできなくて。

 

 

 

でも。

 

私たちは、それをそうとも知らずに、

 

「勝った! うれしい!」とか、

 

「負けた。悔しい……」とか、

 

「俺があのときヒットを飛ばしたから!」とか、

 

「俺があのときボールをキャッチできなかったから……」とか、

 

そのひとつひとつを、ぜんぶ、「自分のもの」として味わって、

 

笑ったり、泣いたり、怒ったり、悔しがったり、

 

胸を張ったり、うなだれたり、

 

抱き合ったり、そっぽを向き合ったり、

 

賞賛したり、賞賛されたり、

 

罵倒したり、罵倒されたり、

 

いろいろいろいろやっているわけです。

 

 

 

なんかね、そういうの、すべて、

 

ただただ、

 

「ゆるされている」のだなあ、と。

 

「ゆるされている」ことは、「しあわせ」だなあ、と。

 

私たちは、いつだって、無条件の「しあわせ」の中で、生かされているのだなあ、と。

 

 

 

「しあわせ」の中には、

 

よろこびも、悲しみも、悔しさも、怒りも、

 

笑顔も、誇りも、

 

みじめさも、情けなさも、

 

うつくしさも、みにくさも、

 

愛情も、憎しみも、

 

およそ、人間の営み、すべてが、

 

ぜんぶ、入っているのだと。

 

ただ、それが、それとしてあること、

 

それとしてあることが「ゆるされている」こと、

 

それ自体が、「しあわせ」なのだと。

 

私たちは、いつだって、絶対的な「しあわせ」の中にいるのだと。

 

 

 

ただただ、そんな風に思うのです。

 

 

 

 

 

よい一日を。