みんな、もれなく、仏さま。 その2

2015年8月21日

昨日の続きです。

 

世の中に存在するもの、すべて、

 

みんな、もれなく、「菩薩」なんだ、

 

というお話ですね。

 

 

 

「かたち以前、ことば以前に、ただ“在る”もの」=「真理」=「如来」

 

その、「真理」そのものとしての「如来」が、

 

「かたち」や「ことば」を持った“なにか”が、

 

そのまま「菩薩」である、と、私は考えます。

 

つまり、私たち人間も含め、この世にあらわれ出ているすべては、

 

ほんとうに、もれなく、「すべて」が、菩薩さま、ということになるんですね。

 

 

 

人間で言えば、

 

どんな見た目をしていたって、

 

どんなことばを用いていたって、

 

どんな振る舞いをしていたって、

 

もれなく、全員、菩薩さま、なんです。

 

聖人だろうが犯罪者だろうが、そこに一切「差」はなくて、

 

ほんとうは、みんな、

 

如来成分100パーセントの菩薩さまであるわけです。

 

 

 

昨日の記事の冒頭で引用した本にも書いてありましたが、

 

菩薩は、ほんとうは、いつだって「仏」(=如来)になれるわけです。

 

というか、そもそも菩薩は、「如来」と呼ばれるなにかがかたちをとったものであるわけで、

 

本来的にはそこに区別はないのですね。

 

「如来即菩薩」「菩薩即如来」というか……。

 

 

 

でも、菩薩は、あえて如来にならずに、

 

いや、「ならずに」というか、「戻らずに」という方が正確かな……

 

まあ、とにかく、菩薩というのは、

 

「あえて」

 

自らをその位置にとどめおいている存在なんですね。

 

 

 

それは、そのまま、「修行」ですよね。

 

ほんとうは、いつでも、一切の「苦」のない世界=「仏」の世界に行けるのに、

 

あえてこちらにとどまって、そういったものを我が身に引き受けて生きている……。

 

 

 

そう考えると、菩薩をやっている自分たちが愛おしくなりませんか?

 

あえて、「苦」を引き受けて、全力でそれを味わっているなんて……。

 

いや、ほんと、見上げたもんですよ、私たち全員。

 

 

 

……まあ、そんなこと言ったって、

 

「自分が如来成分100パーセントの菩薩だなんて信じられないんだけど!?」

 

「ていうか、はっきり言って、“苦”なんか1ミリも引き受けたくないんですけど!?」

 

という反応が起こるのが通常だとは思うのですが……。

 

 

 

でも、

 

「ほんとうは自分は如来なんだ」「あえて菩薩をやっているんだ」

 

ということを知って生きると、そこに余裕は生まれてきますよね。

 

だから、たとえ、「苦」的なものがやってきても、

 

なんというか、「ウェルカム!」じゃないけれど、

 

「これを味わうために自分は菩薩をやっているんだな~」という認識をもって、

 

どこか「遊び」の気分で、でも真剣に目の前のことに取り組めるというか。

 

すべては存在それ自体の「遊び」だとわかっているからこそ、真剣になれるというか。

 

修行は修行でも、苦しい修行じゃなくて、楽しい修行になるんですね。

 

 

 

みんなが、「ほんとうの自分」「ほんとうのいのち」を思い出したら、

 

この世から“苦”はなくなります。

 

それを“苦”と認識する主体がいなくなるのだから当然です。

 

 

 

楽しく生きていきましょう。

 

私たち、ほんとうは、みんな、もれなく、仏さまなのだから。