「私はいない」と「洛中洛外図」

2015年8月22日

「洛中洛外図」ってご存知ですか?

 

たぶん、どなたでも、一回はご覧になったことがあると思うのですが、

 

「京都の市中とその郊外の名所や生活風俗を俯瞰的に描いた絵画」(広辞苑より)ですね。

 

ココ(e国宝 国立博物館所蔵 国宝・重要文化財)で高精細の画像が見られます。

 

 

 

なにが言いたいのか、と言うと、

 

ほら、私、よく言うじゃないですか。

 

 

 

「私」はいない。すべては「わたし」。

 

 

 

って……。

 

その感じに、この「洛中洛外図」が、割と近いよなあ、と思いまして。

 

 

 

まあ、これも、「近い」ってだけで、決して「そのもの」ではないのですが、

 

イメージとしてね、

 

だいたい、こんな感じです。

 

 

 

いや、この、「こんな感じ」っていうのも、決してことばにはできない部分なのですが、

 

あえて表現するならば、

 

 

 

「背景」がない

 

 

 

という感じでしょうか。

 

 

 

個としての「私」が消えると、

 

その瞬間に、「主役」の存在も消えてなくなります。

 

世界に「中心」がなくなります。

 

すると……

 

あら不思議。

 

あっという間に、立体的な「一枚絵」としての世界が、完成です。

 

 

 

その「一枚絵」の中で、

 

個としての「私」を超えたところに在る「わたし」は、

 

文字通り「すべて」として、

 

ただただ、あるがままに、遊んでいるのです。

 

 

 

「洛中洛外図」には、「中心」がないのですよね。

 

いや、どうしても絵にしてしまうとね、

 

物理的な「真ん中」っていうのは生まれてしまうのですが、

 

私が言いたいのはそういうことじゃなくて。

 

 

 

「洛中洛外図」に描かれた人やものの中に、特定の「主役」はいないですよね?

 

言ってみれば、ここに描かれた人やもの、地の部分までひっくるめて、

 

「すべて」が、そのまま、「主役」です。

 

「すべて」が、そのまま、「わたし」です。

 

とても、とても、うつくしい世界です。

 

 

 

まあね、「洛中洛外図」は空から地上を眺めた時の様子ですが、

 

実際には、個としての「私」的なものの目の高さですべては展開するので、

 

(でも、そこに「私」はいないんです。ものすごいパラドクスですが……)

 

だから、決して最高のたとえではないのですが、

 

でも、まあ、結構近いよなあ、と思ったので、

 

今日の記事を書いてみました。

 

 

 

 

 

今日も、気楽に遊んで生きていきましょう。

 

よき日をお過ごしください。