「奇なるかな、奇なるかな。」と言えるよろこびについて

2016年10月17日

おはようございます。小出遥子です。

今日はいきなり本題から。

仏教の開祖・お釈迦さまが菩提樹の下でさとりを得られたとき、
彼は、こんなことをつぶやいたと伝わっています。

奇なるかな、奇なるかな。
一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。

(訳)
不思議だなあ、不思議だなあ。
すべての存在には、もれなく仏の智慧と徳とが備わっている。

このエピソードが、私は大好きで。

お釈迦さまは、さとった瞬間、
「不思議だなあ、不思議だなあ。」
って言ったんですよ。

決して、
「わかったぞ!」
とは言わなかった。

ここ、見逃されがちだけれど、
実は、ものすご~く重要なところだと思うんです。

先日もこのBlogに書きましたけれど、
本来的な「宗教」の役割って、
この「不思議さ」とか、「謎の感じ」とか、そういったものに
スペースを与えてくれるところにあると思うんですね。

「わからない」ものを、
「わからない」ままに置いておいてくれるというか。

人間社会って、とかく、
「わからない」を「悪」にしがちですからね。

「わからないもの」「理解できないもの」
イコール
「自分に害悪をもたらすもの」と判断して、
どうにかこうにか手を打とうとしてしまう。
つまり、自分の「わかる」物語に変えてしまう。
「答え」をでっちあげて、安心しようとしてしまう。

でも、そのことが、実は余計に「苦」を増やしているのだとしたら?

「奇なるかな、奇なるかな。」
「不思議だなあ、不思議だなあ。」

そんな風にして、素直にその「わからなさ」を表現できるよろこびを、
私たちは、ちゃんと自分に保証してあげないといけないんじゃないかなあ。

そのよろこびを奪うようなことばっかりしている
「自称・宗教」って……どうなの?
どうなのよ???

あはは!!!
朝から過激!!!(笑)

 

秋雨にしっとりと濡れた東京の朝です。

よい一日をお過ごしください◎