雨も、カラスも、拍動も

2015年10月2日

おはようございます。

 

いま、東京にはものすごく強く雨が降っています。

 

雷も鳴っています。

 

 

 

そんな中、窓をカラカラと開け放して、電気もつけずに、

 

外の方を向いたまま、ただただ坐って、数十分を過ごしました。

 

 

 

最近、長年……って言っても5年弱ですが、

 

まあ、そのぐらい続けてきた瞑想のやり方を変えたんです。

 

前は、静かに坐って、目をつぶり、自分の呼吸だけに意識を向けていたのですが、

 

最近は、目を開けたまま、呼吸にも特別に意識を向けずに、

 

ただただ、「いま」「ここ」で起こっていることとともにある、

 

というのを、ずーっとやっているんです。

 

どうしてもそれがうまく行かないときは、以前のやり方に戻っていますが、

 

基本的にはそうしています。

 

 

 

専門家(?)の目から見て、私の瞑想がうまくいっているものであるのかどうかは

 

甚だ疑問ではあるのですが、

 

でも、本人としては「これはいいなあ」「しっくりくるなあ」なんてことを思いながらやっています。

 

「瞑想をしている」という意識もないままに、ただ、やっています。

 

 

 

というのも、このやり方(厳密に言えば「やり方」とも呼べないようなものだけど……)だと、

 

瞑想中と日常生活の間の区別がなくなってくるんですよね。

 

坐っていても、立っていても、歩いていても、

 

黙っていても、誰かとしゃべっていても、

 

深く呼吸をしていても、浅い呼吸しかできなくても、

 

仕事をしていても、ネットサーフィンに興じていても、

 

「気づきの意識とともにある」ことさえできれば、

 

それは「瞑想」と呼べるのではないかなあ……と。

 

 

 

区別ということであれば、

 

この瞑想をしているとき……というか、

 

自発的にやっているときであれ、そうでないときであれ、

 

瞑想状態で生きているときは、

 

「いま」「ここ」で起きている、

 

「いま」「ここ」に立ちあらわれてくる数々の事象に対して、

 

区別をつける心がなくなってきます。

 

 

 

そうかと言って、世界が色のない、平坦な、のっぺらぼう的ななにかになるのか、と言ったらそうではなくて、

 

もちろん、青は青だし、赤は赤だし、エメラルドグリーンはエメラルドグリーンだし、

 

雨は雨だし、川は川だし、木は木だし、橋は橋だし、

 

カラスはカラスだし、スズメはスズメだし、

 

息は息だし、汗は汗だし、鼓動は鼓動だし、思考は思考、なんです。

 

事象は事象として、そのままに、ある。

 

だけど、それに優劣、順位をつける「私」がいなくなるんです。

 

結果として、すべてはつながっているけれど、それでもひとつひとつの個性はちゃんとある、

 

でこぼこで、色とりどりで、でも“ひとつ”の、「ありのままの世界」が、

 

「私」的なものをも、“まるごと”ひっくるめたままに、

 

瞬間ごとに、ただただ展開していく……

 

それに気づいている“なにか”と、ただただ、「ともにある」ということが起こってくるんです。

 

 

 

でこぼこで、色とりどりで、でも“ひとつ”の、「ありのままの世界」では、

 

雷の音も、カラスの鳴き声も、「私」の呼吸の音も、

 

地面を打つ雨の一滴一滴も、木々の葉の一枚一枚のゆらぎも、一回ごとの拍動も、

 

大好きなあの人の落ち着いたたたずまいも、大嫌いなあの人のヒステリックな行動も、

 

「おいしい」も、「ありがとう」も、「住民税払わなきゃ……」も、

 

すべてがまったく平等に、

 

「いま」「ここ」に立ちあらわれては消えていく……。

 

 

 

それはことばを超えていて、

 

でも、なにか、ひとこと言えるとしたら、

 

ただただ、「世界」は、うつくしいよ、と。

 

そのままの「世界」は、うつくしいよ、と。

 

 

 

うつくしい世界を生きていきたいから。

 

ほんとうの世界を生きていきたいから。

 

ただ、続けていこう、と。

 

そんな風に思っています。

 

 

 

 

 

これ書いている間に、雨、弱まりましたね。

 

雲間から光ものぞいています。

 

 

 

よき日を、うつくしい日を、お過ごしください。