「無常」≠「さみしい」

2015年10月5日

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 

(『平家物語』より)

 

 

 

 

 

 

 

中学、高校の古典の授業などで、

 

「日本文学の根底には仏教的無常観が流れている」

 

とかって習いませんでした?

 

冒頭に挙げた『平家物語』もそうだし、『徒然草』も、『方丈記』も。

 

私の場合、大学でも、日本文学を専攻していたので、

 

(不真面目な学生だったけど、一応、そういうことになっている……)

 

この、

 

「日本文学」=「仏教的無常観」

 

という構図は、ずっとずっと疑いなきものとして、

 

頭の中にドーンと居座っておりました。

 

 

 

でも、はっきり言って、あの頃の私、思いっきり誤解していたなあ……と。

 

だって、「無常」っていうのは、そのまま「さみしい」ものだと思っていたから。

 

これはめちゃめちゃ大きな誤解ですよね。

 

 

 

「無常に徹し切って、空(くう)を空じ切って、

 

はじめて、ほんとうの“世界”が立ちあらわれてくるんだよね」

 

とは、昨晩の夫との会話ですが、

 

(どんな夫婦だ……)

 

この、「徹し切る」っていうのは、

 

本当に、本当に、本当に!

 

ものすごく、大事なところだと思います。

 

 

 

「無常に徹し切る」っていうのは、つまり、

 

「“私”はいない」ということを、完全に、完璧に、真実、見抜く、ということです。

 

 

 

「私」を置き去りにしたままに、

 

「すべては移り変わっていく……」「無常だ……」

 

とかやっているのって、

 

ひとことで言えば、

 

「さみしいこと」なんですよ。

 

とてつもなく、さみしいこと。

 

 

 

だってそうでしょう。

 

周りのものがみんな去って行って、「私」だけが残されてしまうんです。

 

こんなにさみしいことってないよ……。

 

 

 

でも、仏教の言う「無常」って、実は、そんなにさみしいものじゃない。

 

というか、そもそも「さみしさ」なんて発生しようのないところのお話なんです。

 

 

 

だって、「ほんとうの“世界”」には、そもそも「私」がいないんだから。

 

「私」がいないのなら、誰が「さみしさ」を感じるの?

 

 

 

「私」が消えると、「あなた」が消えます。

 

「彼」が消えます。「彼女」が消えます。

 

「あれ」が消えます。「それ」が消えます。「これ」が消えます。

 

ぜんぶ消えます。

 

すべてが、なくなってしまいます。

 

 

 

でも。

 

この、「すべてがなくなった」瞬間、

 

「すべて」が、まったくあたらしく、立ちあらわれてくるのです。

 

 

 

「ひとつ」として、でも「個」の輝きは失われないままに、

 

というか、「ひとつ」だからこそ、「個」が輝いていく……。

 

そんな風に、ただただ、「すべて」は、まったくあたらしく展開していくのです。

 

 

 

「無常」を対象化する「私」が消え去ったとき、

 

はじめて、

 

「常」としての「わたし」があらわれてきます。

 

 

 

そして、

 

「常」としての「わたし」は、

 

そのまま、

 

「ほんとうの“世界”」と同義です。

 

 

 

 

 

ただ、見つめる勇気さえ持つことができるのならば……

 

そのどうしようもない、説明のつかない「さみしさ」は、

 

霧のように消え去ってしまうのかもしれないよ。

 

 

 

 

 

 

 

月曜日。

 

今週も、生きていきましょう。

 

 

 

よき日を!