奇なるかな。奇なるかな。

2015年10月8日

奇なるかな。奇なるかな。

 

一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。

 

【釈迦】

 

 

 

 

 

上記は先月の藤田一照さんの仏教塾(単発受講受付中!)で教えていただいたことばなのですが、

 

お釈迦さまが35歳でさとりをひらかれたときにおっしゃられたことだそうです。

 

 

 

「不思議だなあ。不思議だなあ。

 

すべての存在には、もれなく仏の智慧と徳とが備わっている。」

 

……というような意味になるでしょうか。

 

 

 

「奇なるかな。奇なるかな。」

 

「不思議だなあ。不思議だなあ。」

 

これ、なんとも言えず、いいですよね。

 

お釈迦さまの、ことばにならない感動が伝わってくるようです。

 

 

 

……で、です。

 

お釈迦さまと自分とを同列に並べることになって恐縮なのですが、

 

(本当にすみません……!)

 

この「不思議だなあ。不思議だなあ。」っていうの、

 

実は、私も、割と頻繁に感じていることで……。

 

「わかる……。めっちゃわかるよ、ブッダ!」

 

というかね……。

 

(本当に、本当にすみません……! 伏して!)

 

 

 

生まれたての赤ん坊のような目で眺めてみれば……

 

とにかく、「不思議」としか言いようがないんです、

 

この「世界」は。

 

 

 

「どうして「世界」はこんな風にできているんだろう!」

 

って……。

 

もう、ただただ、ただただ! 感動してしまうんです。

 

 

 

“こんな風”っていうのは、あれです、完全肯定のニュアンスです。

 

まあ、あえて、もう少しことばを足すのなら、

 

「どうして「世界」はこんな風にうつくしくできているんだろう!」

 

ということになるかな……。

 

 

 

そういうとき、そこには、もはや、「しあわせ」しかないんですね。

 

「私」が「しあわせ」を感じている、

 

のではなく、

 

「しあわせ」が「私」を感じている、

 

というか……。

 

「私」と「しあわせ」との間に区別がないんです。

 

さらに言えば、

 

「私」と「世界」との間の区別もない。

 

「しあわせ」としての「世界」そのものとなった「わたし」が、

 

ただただ、ここに「在る」。

 

……こんな感じでしょうか。

 

 

 

まあ、もちろん、私も、四六時中こんな状態で生きているわけじゃなくて、

 

ものすご~~~く否定的な意味で、

 

怒りや悲しみ、ときには憎しみとともに、

 

「どうして「世界」はこんな風になっているんだろう!」

 

のことばを発することだってしょっちゅうですが、

 

でも、ほんとうは、ここには「しあわせ」しか存在していないんだよな……と。

 

 

 

目の前の世界を否定してしまいたくなるときは、

 

「私」が「私」に閉じてしまっているとき。

 

「私」が「私」から解放されたとき、

 

「わたし」としての「世界」は、

 

ありのままの輝きをもって、眼前にうつくしく展開されてゆきます。

 

 

 

いつだって、「世界」と恋に落ちていたいなあ。

 

「奇なるかな。奇なるかな。」と、よろこびのため息をつきながら、

 

ただただ“ひとつ”という名の安らぎに包まれていたいなあ。

 

 

 

そうやって生きていくことは、

 

案外、むずかしいことではないのかもしれないね。

 

 

 

ただ、それとともにあるだけで、「世界」は……

 

 

 

 

 

 

 

よい一日をお過ごしください。