わたしと念仏

2015年10月10日

「“世界”はうつくしいですか?」

 

と問われたら、

 

「はい」

 

と答えます。

 

おなかの底から、力強く、そう答えます。

 

 

 

「世界」は、とてつもなく、うつくしいです。

 

ただし、その「うつくしさ」を感じているのは、

 

この「私」ではありません。

 

 

 

この「私」がいなくなったとき、

 

はじめて、

 

「世界」は、とてつもなくうつくしいものとして立ちあらわれてくるのです。

 

 

 

そのとき、

 

「世界」のすべては「わたし」であり、

 

「わたし」としての「世界」は、

 

それそのものとして、

 

うつくしさそのものとして、

 

ただただ、そこに「在る」のです。

 

 

 

 

 

逆に言えば、

 

世界をうつくしいものとして感じられないとき、

 

というか、

 

うつくしさとしての世界と一体化できていないとき、

 

そこには「私」に閉じた「私」が存在している、ということです。

 

 

 

いや、「私」は存在していていいんです。

 

「私」だって「ほんとうのわたし」の一部です。

 

それは否定できるようなものじゃない。

 

 

 

でも、そこに閉じてしまうと、

 

つまり、それだけが「自分」だと思ってしまうと、

 

とにかく苦しいんですね。

 

居心地が悪いんです。

 

なんで居心地が悪くなるのかというと、

 

それは、「ほんとうのわたし」の姿ではないから。

 

 

 

そういうとき、私は、

 

うつくしさとしての「世界」と一体化した「ほんとうのわたし」を思い出すために、

 

「南無阿弥陀仏」

 

をとなえます。

 

 

 

なにも思わず、感情もこめず、とにかく無心に、機械的にでもいいから、

 

「南無阿弥陀仏」

 

をとなえ続けるんです。

 

実際に口に出すこともあるし、こころの中で繰り返すだけのことも多いです。

 

 

 

実際にやってみるとすぐにわかります。

 

「南無阿弥陀仏」をとなえているとき、

 

なにかほかのことを「考える」ことはできません。

 

「思考」と「南無阿弥陀仏」は、決して同居しないんです。

 

 

 

「思考」というのは、個に閉じた「私」がすることです。

 

つまり、「思考」がないとき、そこに「私」はいない、ということです。

 

 

 

「私」がいなくなると、すべては「わたし」になります。

 

そして、「私」を超えたところにある「わたし」こそが、

 

「南無阿弥陀仏」なのかもしれません。

 

 

 

「南無阿弥陀仏」の「世界」は、うつくしいです。

 

 

 

 

 

 

 

今日も、お元気で。

 

南無阿弥陀仏