驚きと、感謝と、南無阿弥陀仏

2016年10月20日

おはようございます。小出遥子です。

昨日、夫とこんな話をしていました。

夫:「最近、遥子ちゃんは
“いのちのことは、さっぱりわからない”
って、よくBlogに書くじゃない。
これって確かにその通りなんだけれど、
この表現のままだと、人によっては誤解しちゃうかもね」

私:「うーん、やっぱりそうか。
じゃあ、どんな風に表現すればいいのかな?」

夫:「“いのちのことは、わかりようがない”とか……」

私:「ああ、それだ……! 間違いないね……!(興奮)」

……ということで、今後は、私、
「いのちのことは、さっぱりわからない」あらため、
「いのちのことは、わかりようがない」推しでいきます。
よろしくお願いいたします。

……って、勝手に完結しちゃったけど。
さすがにこれだけだと伝わらないと思うので、
もうちょっと詳しく書きますね。

ここでの全ポイントは
「わかりようがない」というところにあります。
つまり、ここには、「わかる」可能性が
ひとつも残されていない、ということです。

「わからない」ということばだと、
まだ、「わかる」に転じる可能性が感じられますよね。

でも、ないの、そんな可能性は。
1ミリだって残されていないの。

「いのちのことは、わかりようがない。」

ここにあるのは、混じりっ気なしの「わからなさ」だけ。

ここには、もう、
「わかりたい」とか「わかろう」とかいう思いすらなく、
ただただ純粋に「わからない」「わかりようがない」と。
そのことに対する驚きと……
それと、理屈を超えたところからの感謝だけがあって。

こんなにわけのわからないこと、
わかりようのないことが、
それでも毎瞬きちんと起こり続けていて、
そうやって「世界」は回り続けていて……

いまここで起きていること、起きていないことを
虚心坦懐に眺めれば眺めるほど……
「すごい!」と「ありがとう!」しかなくなってしまうんですよね。

そういえば、フィッシュマンズに、
「感謝(驚)」というタイトルの名曲がありましたね。

ボーカルの故・佐藤伸治氏は、
この、混じりっ気なしの驚きと感謝を知っていたのかもしれない。

だってこの曲、完全に「神さま」に捧げられているもんね。

余談でした。

「わからない」にくつろぐためには、
「わかりようがない」ことを、まずはわからないといけない。

絶望的な、ほんとうに、1ミリの光をも残さない、
完膚なきまでの「わからなさ」は、そのまま希望になるんです。

「わかりたい」気持ちがあるくせに、
中途半端に開き直って、
「わからないものはわからないよ」と言っているうちは、
祝福の光に包まれることはないでしょうね。

辛口で申し訳ないけれど。

「わかりようがないんだなあ」ということを「わかる」瞬間が、
もしかしたら、そのまま「さとり」の瞬間なのかもしれないな……と。
そんなことを思います。

驚きと、感謝と、南無阿弥陀仏

それだけだなあ……。

 

やわらかな日差しに包まれた東京の朝です。

よい一日をお過ごしください。