ゼロ地点から

2014年6月13日

曲がりなりにも(本当に「曲がりなりにも」なんですが)なにかを書いて世の中に発信するということは、必ず誰かの反応とセットになっているということであり、時折、その仕組みが私を「過剰」にしてしまう。高揚したり、落胆したり。傲慢になったり、卑屈になったり。どっちかに完全に傾くことはなくて、たいていその間を行ったり来たり、メトロノームのようにカチカチカチカチ忙しい。動悸は激しく、地に足はつかず、呼吸は浅く、姿勢は乱れ、夜は眠れず、朝はつらい。早起きだけが私の自慢できるポイントなのに、それすら危うくなってくる。

 

「もうたまらんばい!」

「どげんかせんといかん!」

 

となったら、私は、朝、いつもより早めに家を出て、行きつけの神社に駆けこむ。

 

ものすごく特別な神社というわけではない。オフィスビル立ち並ぶ中にある、こじんまりとした、気取らない神社である。出社前のサラリーマンがふらっと寄って、神前にご挨拶だけしてさっと帰っていくような。でも、しゃきっとしていて明るくて、気っぷのいい江戸っ子みたいな、とてつもなく爽やかな印象の神社。新卒で入った会社の近くにあったご縁で、その頃からお世話になっている。私はここに、月に二回、新月と満月の日は必ずお参りしている。「過剰」な自分に疲れているときはもっとたくさん。鳥居をくぐった瞬間から、自然と背筋が伸びていくのを感じる。

 

神前ではごちゃごちゃとお願いごとを唱えるようなことはしない。二礼二拍手、のち、お腹の前あたりで両手を合わせてそっと目を閉じ、ただただ頭の中をからっぽにする。空白の時間を自分に許すのだ。

 

そうしているうちに、いつしか、いま、ここで、自分の足をこの地につけて立たせていただいている、生かしていただいていることに対する感謝が、ごくごく自然に湧き上がってくる。「ありがとうございます」などという言葉をナチュラルに口に出している自分に気づいて、毎回びっくりする。「感謝は行為ではなく、状態なのだな」なんてことを思う。そうなったらもう大丈夫。もう一度深々と頭を下げ、さっと神前を離れる。

 

鳥居をくぐって外に出たときには、体中にくっつけていた「過剰」さがだいぶマシになっている自分がいる。心身の不快な症状はほとんどすべて消えてしまっている。神社パワー、恐るべし! 毎回脱帽してしまう。

 

その後、だいたい毎回近くの公園に行き、カフェで飲みものを楽しむことにしている。(おお、こんなことを書くと自分がお洒落な人になったようだ……!)窓際の席に座って、緑あふれる広場を行く人々を眺めていると、おなかのあたりがぽかぽかしてきて、「気」がおさまるべきところにきちんとおさまるようになる。すべての人たちに、まったく平等に降り注ぐ陽の光を見ると、「神さまは人間のことが好きで好きでたまらないのだろうな……」なんてことを思う。確信をもってそう思う。「私もやれることをちゃんとやって、淡々と役目を果たしていこう」なんてことも思う。

 

日本に神社があって良かった。心底思う。自分をゼロ地点に戻してくれる、ありがたい装置である。

 

 

 

ということで今日は満月。大好きな神社にお参りしてきまーす。