【一遍】こゝろよりこゝろをえんと意得(こころえ)て心にまよふこゝろ成けり

2014年5月14日
イラスト:nihhiイラスト:nihhi

これは、あるお坊さんの「こころこそが大事なものであって、格好などどうでも良い」といったような発言に対しての、一遍上人の返歌だそうです。「こころ、こころと繰り返して、結局こころに迷ってしまっているではないか。こころなどという頼りないものに関わっていても仕方のないことだ」といったような意味になるでしょうか。辛辣でありながら、どこかあっけらかんとした空気をまとった、素敵な歌だな、と思いました。

……などと、なんだか余裕をかましておりますが、正直に告白すると、私自身、ごくごく最近まで、「こころ教」の信奉者だったのでした。しあわせはいつもじぶんのこころが……じゃないけれど、世はすべて無常、最後には自分自身のこころだけを頼りにして歩んでいくしかない、なんて、そんな風に長年思い続けて、実際、そのようにして生きてきました。

でも。あるとき、その唯一の拠りどころであった自分自身のこころというものを、じっくりと腰を据えて、よくよく見つめてみようとしてみたところ……とんでもないことが発覚したのでした。なんと、これほどまでに、「変わりやすく」、「掴みづらく」、「頼りない」ものもなかったのです。

しかし、これも、考えてみれば当然のお話なんです。ここのところ、毎週のように書いていますが、仏教では、この世のすべては、縁によって瞬間ごとに生滅を繰り返す、流動的な存在であるとされています。そして、縁起のネットワークは、すみずみまできっちりと張り巡らされていて、そこから外れることなど、どのような存在であろうとも、決してできないのです。

自分自身のこころも例外ではありません。それだって、言ってみれば、ひとつの「縁起」のあらわれでしかないわけで、およそこの世に存在するありとあらゆる事象と同様、一瞬たりともその姿をとどめおくことなどできないのですね。

そうなってくると、じゃあ、いったい、なにを拠りどころとして生きていけばよいのか、という話になりますが、そういったものは、もう、縁を起こしている“なんらかの力”、そのものに求めることしかできなくなってくるのではないでしょうか。

これは、言い換えれば、大いなる流れそのものを、まるごと信頼する、ということになります。刻々に起きてくる目の前の出来事や、それらに対していちいち「反応」して、一喜一憂を繰り返す自分のこころ、それすらひっくるめた「移ろいゆくすべて」を、まるごと“それ”として認めていく……。それこそが、仏道修行というものなのかもしれません。

自分のこころすら「縁次第」と、クールに見つめる目を持つことができたのなら……そこで、ほんとうの意味での自由に出会える気がするのです。未熟な私には、はっきり言って、相当厳しい道ではあります。それでも、一歩ずつでも、進んでいけたら……。そんなことを思います。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年8月16日発行号より転載)