仏教=自分なくしゲーム???

2016年10月27日

おはようございます。小出遥子です。

私はいろんなところで「仏教ファン」を自称していますが、
でも、最初から仏教思想の真髄をきちんと理解できていたかのかと聞かれると、
「いやあ……」とつぶやいたきり、赤面して黙り込むしかなくて。

私も、随分といろんな自分勝手な勘違いをはたらいてきました。

その中のひとつが、
「仏教って、つまりは“自分なくしゲーム”でしょ」
……というもの。

この、どうしようもなく存在している「自分」、
もっと言えば「自我(エゴ)」が完全に退場したあかつきには、
「涅槃」というワンダーランドに遊んで暮らせるようになるのだ、
だから私はもっともっと瞑想の時間を増やさなきゃいけないし、
もっともっと念仏をたくさん、何百万遍もとなえなきゃいけないんだ!
……みたいなね。

でも、これ、大変な勘違いでした。

だって、そもそも、「自分」が退場したあとに「涅槃」に遊ぶのは、
じゃあいったい誰なんだ? ということになりますし、
それ以前に、いったい、誰が誰をなくすの?
そんなことは可能なの? と。

そこがまったく吟味されないままに、
必死になって「自分をなくそう!」ったって、
♪それはちょっとできない相談ね~
と、明菜ちゃんが歌いながら出て来てしまいます。

ほんとうは、「自分」をも含めたすべては、
縁の網目の中で、瞬間ごとに立ちあらわれては消えていく、
実体なきまぼろしに過ぎないのだとしたら?

つまり、仏教というのは、
決して「自分なくしゲーム」なんかじゃなくて、
「そもそも自分が自分だと思っている自分なんか
実はどこにもいないんじゃない?」
という可能性を指し示した教えだったんです。

「ある」自分を滅していくのではなく、
そもそもそんなものはどこにも「ない」のだとしたら?
その可能性について、ちょっと探ってみましょうか、と。
お釈迦さまは、そういうことをおっしゃったのだと思うんです。

仏教っていうのは、私たちが知らず知らずのうちに
陥ってしまっている狭苦しい世界の見方を、
ひとつひとつ根本から疑って、
ひとつひとつ根本からひっくり返していくプロジェクトなんですよね。

そのプロジェクトの方向指示器として
「無常」「無我」「涅槃」
といったことばがあるのであって、
それらがほんとうに「絶対的な真実」であるかどうかは、
ご自身で確かめてみてくださいね、と。

だから、あたまの中で理屈をこねくり回すのもたのしいけれど、
道を歩まないことには、結局なにも始まらないんですね。

仏教、面白いですよ。
厳しいところもあるけれど、やっぱり、すごく面白い。

しみじみ、そんなことを思う、仏教ファン歴○年目の秋でした……。

 

来月出版する本(近日発表予定)の追い込みで寝不足な私です……。

よい一日をお過ごしください◎