「自我」なんかどこにもない!

2016年2月7日

「自我」(エゴ)というものがすっかり消え失せてしまえば、

 

きっと、とっても楽になれるんだろうなあ……

 

って、そんなようなことを、

 

昔の私は、ずっとずっと考えていました。

 

でも、それは思い違いだったなあ、と……。

 

 

 

だって、「自我」という確固たる存在なんか、

 

実はどこにもないのだから。

 

 

 

私たちが「自我」と呼んでいるものは、

 

実は、

 

「思考」と「感情」と「体験」の3つの寄せ集め、

 

もしくはその組み合わせの結果でしかないんですね。

 

 

 

そして、それぞれの「思考」も、「感情」も、「体感」も、

 

すべて、広大な「縁」のネットワークの中の、

 

一瞬の結節点でしかないんです。

 

つまり、それは、

 

「あるけどない/ないけどある」

 

……といったようなものなんですね。

 

そうとしか言えないんです。

 

 

 

それらが「あるけどない/ないけどある」ようなものであるのなら、

 

その寄せ集め、もしくは組み合わせの結果としての「自我」だって、

 

当然、「あるけどない/ないけどある」ということになりますよね。

 

つまり、そこに実体はないんです。

 

 

 

「自我」というものは、決して、なにか

 

静的なかたまりのようなものとして

 

存在しているわけじゃないんです。

 

「縁」によって、瞬間ごとに

 

生じては滅し、滅しては生じ……を繰り返す

 

そのダイナミズム、変化そのものを、

 

他に呼びようがなくて(←ここがポイント)、

 

仮に「自我」と呼んでいるに過ぎないんですね。

 

 

 

楽になりたいのなら、

 

「自我」そのものを消し去ってしまおうと努力するよりも、

 

「自我」と呼ばれるものが、

 

いったいなにによって構成されているのかを、

 

まずはしっかりと理解して、

 

そして、それらが、いったいどんな風に

 

湧き上がっては消えていくのかを、

 

ただただ、じっくりと観察していくといいと思います。

 

 

 

丁寧にそれをやっていった結果、

 

「それらを生滅させているのは、決して、

 

自分が自分だと思っている自分(=自我)ではない……!」

 

という気づきが訪れたら、もう大丈夫。

 

「な~んだ。自我があっても(なくても)

 

ぜんぜん差し支えないじゃん!」

 

と、にっこり笑って言えるようになります。

 

 

 

「楽」っていうのは、

 

「ある」ものを「ない」と言い張るのではなく、

 

「ない」ものを「ある」と言い張るのでもなく、

 

「あるけどない/ないけどある」ものを、

 

それそのものとして、過不足なく認められたときに起こってくる、

 

ものすごくおおらかな感懐のこと、なんですね。

 

 

 

そして、「自我」からフリーになるっていうのは、

 

「自我」そのものを消し去ってしまうことなんかじゃなくて、

 

(そもそもそんなこと不可能です。)

 

「あるけどない/ないけどある」自我というものの性質を、

 

それそのものとして、しっかりと理解すること、なんですね。

 

 

 

おなかの底からの「理解」は、そのまま「愛」だと思う。

 

そして、愛としての理解(理解としての愛)は、

 

どんな存在にも、平等に訪れうるのだと思う。

 

それを、それそのものとして、認めるだけでよいのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひんやりとした空気が心地よい、東京の朝です。

 

よい日曜日をお過ごしください◎